十五重の石塔の意味するもの
──陰陽五行の視点から──


黒 岩 重 人 




 神門を入って参道を拝殿に向かって進んで行くと、右手に十五重の石の塔が見える。この十五重の石の塔は、本多長政の書かれた小松天満宮縁起に「御本社は南面也、うしろに御宝蔵あり、御神物等残所なく調させ給、御手水所あり、十五重の石の塔在り」とあるように、すでに天満宮の創建当初から、この場所に建てられていたものである。人々は、この石の塔を、あたかも天満宮のシンボルであるかのように思い、親しんでいた。それは、利常公の御遺骨を小松から金沢へ御送行するとき、お供の任に当たった品川左門の言葉からもうかがうことができる。「三壺記」はこのように記している。「心の中に懸橋を心静かに打渡り、懸橋の浜通りに輿をやる。日頃見馴れし天神の石の塔を見上げつつ、重ねあげにし塔なれど、限りありてぞ見果てぬる。」左門は、この十五重の塔に思いをめぐらせながら、殉死したのである。
 では、いったいこの塔は、何の為に建てられ、それは、どのような意味を持つものなのであろうか?
 「小松天満宮等専門調査報告書」では、この塔について、次のように述べている。「塔というものは本来仏寺に於いて建てられるもので、釈迦の墓を表わす相輪を受ける台なのである。
 こゝでは相輪が無くそのかわりに宝珠をのせている。七重、九重、十三重迄は多く造られたが、十五重と云うのは非常に珍らしい塔と云えるものである。
 相輪をのせずに宝珠をのせると云う事は、こゝでは塔本来の意味を失ってしまってあくまでも境内の荘厳の為の一つの飾りとしての塔が造られたものと見た方が良いのである。(小松天満宮等専門調査報告書、287頁)」
 つまり1)十五重の塔は、非常に珍しいものであること。2)相輪をのせずに宝珠をのせると云う事は、仏塔としての意味を失っているということ。3)したがって、この塔は、境内の荘厳の為の飾りとして建てられたものである、と言うのである。
 しかし、単に境内の飾りとみるだけで、よいのだろうか。そこには、もっと深い思いと意味がこめられているように思えるのである。陰陽五行の視点から、この点を掘り下げてみたい。


 まず塔の建っている位置と、塔の形状について観てみよう。
 十五重の塔は、神門を入ってすぐ右手にある手水舎と、社殿との中間、御札所の斜め前の所に建てられている。社地の入口でもなく、隅でもなく、奥でもない。この位置にある、ということが重要である。それは、この位置が天満宮の社地内の、ほぼ中央に当たるからである。梯川の堤防が作られたことによって、社地も、創建当時とは少しばかり変わっているけれども、当時の状態を推定するには充分である。
 社地の中央にあるということは、この塔が、天神の聖なる空間の要であるということである。易のことばで言えば、太極であるということであり、河図・洛書の中央の位を象ったものであると思われる。
 塔は、高さは七・二四一メートル、石の材は坪野石を用いている。この石は、加賀藩の用材とされ、一般の使用が禁止されていた物である。
 台座は、一辺が一・三九七メートルの正方形である。この上に十五重の塔が立てられている。台座の四辺は、当時の磁北に則り、正しく東西南北の位を表したものと思われる。 台座の上には、八角形の四枚の石が、それぞれ四方に向けて立てられていて、その中央は円形にくり抜かれている。塔の構造上、八角形になっているけれども、中が真丸にくり抜かれているところを見れば、円形とみてもよいであろう。つまりドーナツ型の円盤が、正しく東西南北の位に向かって立てられており、その上に十五層が重ねられているのである。
 ところで地は、厚くして万物を上に載せ、その形は四角である。天は、地を覆いてその上を巡り、その形は円である。台座の正方形は、地の方正なるに象ったものであり、その上に置かれた円盤型は、天の円形に象ったものであろう。
 「天は円にして、地は方」という考えは、中国思想の伝統的な世界観である。古くは、古墳時代の前方後円墳も、この世界観によるものである、と言われている。また近くは、昭和天皇の御陵も、方形円墳と聞いている。
 金沢の野田山の前田家の墳墓は、明らかにこれに基づくものである。利家公の墳墓は、方形を二段に重ね、その上にお椀を伏せたような半球を載せた、三層構造である。
 十五重の塔の形も、それらと同じように、「天円地方」の世界観のもとに、天地を象ったものであろうと思われる。そしてそれは河図の中央の数「天五・地十」を暗示しているといえよう。


 塔の位置が社地の中央にあり、その形が、天地を象ったもであのならば、十五に重ねたという「十五」の数には、どのような意味があるのであろうか。
 陰陽五行の基本的な理論である「易の蓍策の数」、および「河図の数」「洛書の数」、の三つの面から、この「十五」の数の意味を考えてみよう。

1)易の蓍策の数
 易経の繋辞伝によれば、数とは「天一・地二・天三・地四・天五・地六・天七・地八・天九・地十」の十個の数をいう。天とは陽、すなわち奇数のこと、地とは陰、すなわち偶数のこと。この天の数を合わせると二十五、地の数を合わせると三十、その総和は五十五となる。これが「天地の数」である。この五十五の数が、天地のあらゆる変化をなし遂げ、変化の霊妙なはたらきを為すところのものである。
 易において占をするときは、この五十五の数から五を除き、五十本の蓍(後には竹を用いるようになった)を用いる。五十の数については、諸説さまざまであるが、朱子は「河図中宮の、天五を以て地十に乗じ」これを得たものである、と言っている(河図については後述)。
 この五十本の蓍の中から一本を抜き取り、太極に象る。したがって実際に用いるのは、残りの四十九本である。これを左右に二分する。左に取った策を陽とし天に象る、右に取った策を陰とし、地に象る。太極が分かれて、天地が成ったのである。次に決められた方式にしたがって、これらの策を数えて、九の数を得れば太陽とし、八の数を得れば少陰とし、七の数を得れば少陽とし、六の数を得れば太陰とする。太陽・少陽であれば“−”であり、太陰・少陰で“--”あればである。こうして一つの記号が出来あがり、この操作を繰り返して、六本の記号による易の卦ができるのである。このように、太陽・少陰・少陽・太陰(これを四象という)を定めることは、易の卦ができあがる基礎となるものである。
 さて、この四象と十五の数であるが、
                                                              
太陽の数九と、太陰の数六を合わせると、十五。少陰の数八と、少陽の数七を合わせると十五。つまり陰陽相い対峙するものを合わせると、十五の数になる。
 十五とは、天(陽)と地(陰)の合した数なのであり、これも又、天地を象ったものである。

 2)河図の数
 では、河図・洛書とは、どのような者であろうか。
易経の繋辞伝には、「河、図を出し、洛、書を出し、聖人、これに則る」という辞がある。むかし、黄河から河図が現れ、洛水から洛書が現れたので、聖人はこれに則って易を作り、易の数理を考察し、五行の生剋の理を示された、というのである。
 河図とは、中国古代の伝説上の人である伏羲氏が、天下に王としてあった時、黄河より龍馬が現れ出で、その背にあったという文様のことである〔1図参照〕。伏羲氏はそれに則り、その数理によって、易の八卦を画きだした、と伝えられている。
 河図の数の成り立ちは、先ず下に天一水を生じ、次上に地二火を生じ、次左に天三木を生じ、次右に地四金を生じ、次中央に天五土を生ず。これが五行の出来上がる順序である。一から五までのこの数が、すべての数の基本となる数であり、これを生数という。次に復たび下に地六水を生じ、次に上に天七火を生じ、次左に地八木を生じ、次右に天九金を生じ,次中央に地十土を生ず。この六七八九十の数は、一二三四五の生数に五を加えた数、つまり五によって成った数である。これを成数という。
 この河図の数に五行を配当すると、一・六は水、二・七は火、三・八は木、四・九は金、五・十は土というようになる。
 河図における「十五」の数とは、それはとりもなおさず、中央の生数五(天)と成数十(地)を合わせた数であり、五行においては、五も十も共に土の数ということになる。

3)洛書の数
 さて洛書とは、むかし禹王が、これも伝説上の人であるけれども、水を治めるときに、洛水から神龜が出で、その背にあったという文様のことである〔2図参照〕。それには一から九までの数が画かれてあり、禹はそれに則って、九疇(天下を治めるための九つの大法)を定めた、とされている。
 その数は、九を戴き一を履み、三を左にし七を右にし、二四を肩と為し、六八を足と為す、そして中央に五を置くと、洛書の数ができあがる。
 洛書における「十五」の数とは、たて・よこ・ななめ、どこをとっても、その総和が十五になる。相い対している数の和が十、それに中央の五を加えて十五、河図の中央の数、「天五・地十」と同じになる。
 〔3図〕は、これに方位を配当したもである。
 小松天満宮は、卯辰観音院(鬼門)と小松城(人門)を結ぶ線上に建立されたものである。〔4図〕は、鬼門と中央と人門の数とその五行の配当図である。鬼門には八が、中央には五が、人門には二が配当され、五行は三者ともに「土」である。この鬼門線上の二・八合わせると十になり、更に中央の五を加えて十五となる。
 河図と洛書は、いわば表裏の関係である。河図は、宇宙の本体の変わらざる面を表し、洛書は、その変化を主として表している図表である。河図を「体」とすれば、洛書はその「用」といえよう。
 この二つの図は、陰陽五行の基本的な理論として盛んに用いられ、ついに朱子によって著された「周易本義」において、易経の冒頭に載せられることとなった。日本においても、江戸幕府が朱子学を推奨して以来、朱子の「周易本義」及び「易学啓蒙」などの書によって、多くの人々に知られるようになり、さまざまな分野での応用がなされた。
 江戸時代、享保年間に活躍した若林強斎は、その著書の中で、河図・洛書をこのように説いている(原文は片仮名)。
 『山が川になるやら、川が山になるやら、冬雷やら、夏雷やら、めつたむせうに、変をなすわざは洛書。すれどもついに天が堕ちず、地が上へあがらず、水がもえず、火がながれず、三綱五常の、りんと立たからみれば、河図と思ふべし。これが何故ならば、あのまん中の五が、心柱になつて居るゆへぞ。人心では未発本然、中庸で云天命の性、大学で云明徳、孟子で云性善、周子の書で云無極而太極、論語で云仁、神書で国中の御柱とも、天の中の御柱とも、心の御柱とも、天御中主とも、国常立とも申し奉るが此の中五のことぞ。「易学啓蒙師説」より』


さて以上のような観点からすれば、十五重の塔に秘められた意味は、次のように要約できよう。
1)社地の中央に建てられており、「中央の土」に象ったものであること。
2)その形は「天円地方」の天地を準えたものであること。そしてそれは、河図の中央の「天五・地十」の数を導き出すものであること。
3)そして「十五」の数は、太陽(天)と太陰(地)の合数であり、更にそれは河図の「天五・地十」の数、および洛書の鬼門線の八・五・二の「土気の数」に基づいていること。 そしてこれらの3点は、結局のところ一つのことに集約することができる。それは、
4)、この十五重の塔の建てられた目的は、天神の聖なる空間を護るためであること。
 小松天満宮の社地は、低地の湿地帯に盛土をして造成したものであることは、ボーリング調査によって明らかにされている。強固な地盤では無いが故に、社地を水気から護る必要がある。「水気」に対抗するには、「土気」を強めなければならない。五行においては、「土剋水」と、土気は水気を剋し、勝つことができるからである。
 先ず社地の中央に位置を定めた。中央とは、「土気」の位である。そこに石の塔(石は土の固い物)を建て、「天円地方」の天地に象り、河図の「天五・地十」の中央の数を導き出すのである。河図の天五も地十も、共に「土気の数」である。更に「天五」の数は中央を主どり、「地十」の数は分かれて二・八となり、洛書の鬼門・人門の数となる。ここに至って天神の神聖なる空間は、鬼門卯辰観音院から人門小松城までを、その射程に含むことになる。
 もともと洛書は、禹が洪水を治めた功によって、天から授けられたもの、と伝えられている。その洛書に則って作られたこの十五重の石塔が、治水の目的をもっているということも、不思議なことではないであろう。
 天満宮には、現在梯川の治水の為の、移転問題がふりかかっている。治水のシンボル的存在としての「十五重の石塔」を動かして、「治水を!」と言うのは、本末顛倒も甚だしいということになりはすまいか。
                (天満宮だより 第7号 平成3年8月4日発行)


1図

2図

3図

4図

 


天満宮だより 第7号 所収
平成3年(1991)8月4日  小松天満宮社務所 発行


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