宗教としての陰陽道
──陰陽道の即位儀礼、天曹地府祭───


黒 岩 重 人



(一)
 天皇の皇位継承の儀礼に、陰陽道祭があったことを、御存じであろうか。今上天皇の即位式の記憶も、まだ新しい。皇位継承の儀礼の伝統についてさまざまに語られる中で、即位式・大嘗祭については多くの人々が述べているが、天曹地府祭という陰陽道の祭について言及している者は、極めて稀である。
 一代一度の天曹地府祭とは、江戸時代を通して孝明天皇の御代に至るまで、即位にともなって行われた、一代一度の陰陽道祭である。

(二)
 「陰陽五行」の伝来
 日本の陰陽道は、中国の「陰陽五行」の思想、及びそれに基づく「方術」にその源流がある。日本書記によれば、継体天皇七年(五一二)に百済から五経博士が渡来し、また欽明天皇一五年(五五四)には、易博士が渡来している。しかし、この頃はまだこの学問の影響は少なかった。
 その影響が顕著に現れるのは、推古朝に入ってからである。推古十年(六〇二)冬十月には「百済の僧観勒渡来、暦・天文・地理・遁甲方術などの書を献上する」という記事があり、これらの学問・方術の学習が始まったのである。
 推古十五年(六〇七)に始められた、先進文明国である随との交流は、いっそう陰陽五行の学問及びそれを応用しての方術の摂取を促進させた。聖徳太子の十七条憲法にも、また冠位十二階の制定においても、陰陽五行の思想の影響が、色濃く現れている。
 陰陽五行とそれに基づく方術の摂取に、最も熱心であったのが、天武天皇である。日本書紀は、天武天皇について「天文・遁甲を能くす」と記している。そして壬申の乱の時に、自ら式を取って占い、「朕れ遂に天下を得むか」と判断したことを記載している。この方術に通じている天皇がここに出現したのである。
 又日本書紀には、天武天皇四年(六七八)に「陰陽寮」の語がみえる。又同年、始めて占星台を興した。天武天皇十三年(六八五)には、「陰陽師」の語も見える。この天武朝の「陰陽寮」が、はたしてどのようなものであったかはわからないが、やがてそれは、律令体制のもとでの「陰陽寮」へと、受け継がれていくのである。

   陰陽寮の成立
 養老令によれば、「陰陽寮」は中務省に属し、陰陽頭を長として事務官と技術官を置いた。
  事務官
    頭─1人。 (長官) 従五位下
    助─1人。 (次官) 従六位上
    允─1人。 (判官) 従七位上
    大属─1人。(主典) 従八位下
    少属─1人 (主典) 大初位上
  技術官
    陰陽博士─1人、正七位下。陰陽生─10人。陰陽師─16人、従七位上。
    暦博士──1人、従七位上。暦生──10人。
    天文博士─1人、正七位下。天文生─10人
    漏刻博士─2人、従七位下。守辰丁─20人。 使部─20人。 直丁─2人。 

 陰陽頭は、天文暦数、風雲気色について異変があれば、密封奏聞することを職務とした。陰陽師は、実際に占筮及び地相を占うことを職掌とした。そして、神祇官の龜卜と相い並んで、陰陽寮の式占を行った。

   陰陽道の変質
 こうして陰陽寮が成立して、日本の陰陽道は大きく展開を遂げることになるが、平安の中期になると、一つの転機を迎えた。
 成立当初の陰陽寮は、宗教的な儀礼や呪術には関わりをもたなかった。祈願などの儀礼は、専ら僧侶や神祇官の官人が行うものであり、陰陽寮としては、事の吉凶を予言するだけであった。もともと陰陽師の職掌は、災禍を卜筮によって予知することであった。ところが平安時代の中頃、律令体制が緩んでくると、官人ではない「陰陽師」等が私的に貴族と結びつき、彼らの吉凶を占ったり、更には、災害を祓うための祭祓を執り行うようになった。それは次第に、令の規定する陰陽寮の職掌からは離れて行き、ますます宗教的な色合いを深めていった。こうして官制としての陰陽道は、律令制度の崩壊と共に、その内実が形骸化してゆくのである。令の職制を越えて、宗教的な呪術・祭祀が陰陽師の職務となっていった。

(三)
   即位の儀式としての天曹地府祭
 江戸時代を通して行われた、天皇の即位儀礼としての一代一度の天曹地府祭は、こうした陰陽道の変質と宗教化のもたらしたものといえよう。
 この陰陽道祭祀が、いったい何天皇の御世から始まったのか、確かなことはわからない。現存している都状(祈願文のこと)や文献によれば、後陽成天皇の一代一度の天曹地府祭が、慶長六年正月晦日に行われたことが知られる。以降、孝明天皇の御世に至るまで、絶えることなく、必ず即位のたびごとに執行された。
 また徳川将軍家においても、これにならって、将軍宣下のたびごとに、新将軍の一代一度の天曹地府祭が執行された。
 祭場は、「続史愚抄」巻五十三によれば、後水尾天皇の一代一度の天曹地府祭は、慶長十六年五月五日に、紫宸殿において行われたようである。しかし、それ以降は、土御門氏の私邸において執り行われた。

   土御門氏
  この祭儀を主宰する者は長官である。祭文を奏上し、加持祈祷を行う。この長官には、陰陽頭を代々世襲する土御門家の当主が任ぜられた。
 土御門氏は、本姓は安倍氏、その祖は、孝元天皇の皇子の大彦命である。安倍倉橋麻呂の十世の孫、安倍晴明の名は、あまりにも有名である。
 晴明は、加茂保憲に就いて天文・暦道を学び、この道の達人となった。保憲は、自分の子の光栄には暦道を伝え、晴明には天文道を伝えた。これ以降は、安倍氏は代々天文博士を世襲し、加茂氏は暦博士を世襲することとなった。後の戦国の騒乱に至って、加茂氏は正嫡が絶えて断絶してしまったので、安倍氏が、天文・暦の両道を兼ねることになった。 しかしその後、土御門氏(安倍)は秀吉の怒りを被り、京都を追われ若狭へ都落ちを余儀なくされた。そのために陰陽道は欠職となり、陰陽寮設置以来の宮廷陰陽道の伝統は、ついに終息してしまった。
 豊臣家が衰退したので、慶長五年(一六〇〇)に、土御門久脩は京都へ帰ることができ、徳川氏によって陰陽道宗家として認められた。ここに安倍・加茂両家の復興がはかられたのである。翌慶長六年には、後陽成天皇の一世一度の天曹地府祭が、土御門久脩が長官となって執行された。以後、明治に至って官制としての陰陽道が廃止されるまで、土御門氏は陰陽道宗家として陰陽頭を世襲し、全国の陰陽師を統括していくのである。

  祭儀の次第
 さて、この一代一度の天曹地府祭とは、どのようにして行われるものなのであろうか。その祭儀の次第を、見てみよう。
 まず、六鼓が報ぜられて、長官以下、斎服浄衣等を着て、祭りの始まる前の準備をする。やがて祭郎が法螺を吹いて祭儀の開始を報じ、神饌が案上に運ばれると、長官以下が出仕する。長官以下、仮座に着く。
 長官以下、本宮に参詣する。この間に勅使が仮座に着く。長官が祭場に入って着座する。他の奉仕者もつぎつぎに着座する。以上で奉仕者の祭場への入場が終わり、これより祭儀が開始される。
 祭祀の奉仕者は、長官より洒水加持を受けて、清められる。いよいよ勅使をお迎えする段になる。長官は祭門を出て、勅使・御撫物等を迎える。勅使は長官に引導されて、祭場の座に着く。天皇の撫物には、衣類が用いられた。撫物とは、本人の身代わりになる物である。長官は更に洒水を祭場の八方に注いで、清める。
 こうして、祭場には祭祀の奉仕者・勅使・御撫物がそろい、充分に清めも行ったので、神の降臨を招請する条件がととのうことになる。
 長官、迎神文を誦す。
 祭壇の十二の神座に招請される神々は、次の十二神である。天曹具官・地府具官・水官具官・北帝大王具官・五道大王具官・泰山府君冥官・司命君冥官・司禄君具官・六曹判官具官・南斗好星君具官・北斗七星君・家親文人の霊。
 献者謁者、座を起て酒を進献する。初献の後、二献を進める。二献の後、長官が都状を読む。都状とは、祈願文のことである。都状を読みおわると、都状に記載されている幣物を献ずる。献者謁者、座を起て三献を進献する。以上で、神を饗応することが終わる。
 長官、奉幣し、いよいよ呪法がはじまる。長官、日鐸・月鐸を振り、祈念し、印象加持・点符加持をする。次ぎに御撫物に手を触れて、呪法を行う。
 祈祷が終わると、献者は神饌を撤し、長官は還祈の文を読み、神々にお帰り願う。勅使・奉礼以下・長官、退出して元の仮座に着く。祭官各々万歳を唱して、長官以下退出する。

(四)
   祭の目的
 天曹とは、天帝及びその官吏である天上の星の神霊をいう。史記の天官書によれば、北極星座の紫微星を天帝とし、それを中心として回るすべての星を、天帝の官吏になぞらえている。地府とは、地祇の家司のことである。中国において地祇として祭られた五岳の中で、泰山の神「泰山府君」が特に尊ばれた。その故にこの「泰山府君」及びその家令・家扶である司命・司籍・司禄などを地府という。したがって天曹地府祭とは、天帝並びに泰山府君及びその家令・家扶を祭る祭りであるといえよう。
 都状の文によれば、皇位継承にともなって行われる天曹地府祭の意味付けは、天帝を祭って天子受命の事を感謝することにある。そして、中国の天子は、受命して天子となって新しく王朝を興した時には、封禅の儀を行い、天神地祇に謝するのであり、日本の天子も、また天命を受けて天子になられたのであるから、この封禅の儀に相当する祭を行うべきである、というのである。これは恐らく、桓武天皇が交野において行った祭天の儀を、念頭においたものであろう。形の上において、この祭天の儀に效おうとしたのである。
 しかし、こうした建前とは裏腹に、祭儀において、祭壇の十二の神座に招請される神々は泰山府君を中心とするものであり、人の寿命の長短や福禄を司る神々である。ここにおいて祈願されることは、天皇ご自身の安穏と御寿命の長久であることは明らかである。
 祭儀の次第によれば、この天曹地府祭のハイライトは、勅使が持参した天皇の御撫物に加持を加えて、穢れを祓うことにある。その意味においては、八十嶋祭の祭儀と、なんら変わるものではない。
 八十嶋祭とは、平安初期の文徳天皇から鎌倉中期の四条天皇まで、およそ四百年間にわたって、即位のたびごとに、神祇官に属する卜部の中から任ぜられた「宮主」が主宰となって行われた禊祓の行事である。この祭においては、女官が天皇の御衣を難波の海辺で西の海に向かって振り、宮主祓いを行い、御贖の金銀人像、その他の祭物を海中へ投ずることに、その眼目があった。
 一方、一代一度の天曹地府祭では、陰陽頭が天皇の御撫物である御衣に対して、祈念加持するのである。人像などを海中に投ずるのと、御撫物である御衣に対して、祈念加持するのとの、形の上での相違はあっても、禊祓の行事であることにおいては、八十嶋祭と一代一度の天曹地府祭の祭儀は、共通したものであることがわかる。
 このようにしてみれば、この祭の目的は、結局のところ、天帝に天子受命のことを謝し、万民の和楽することを祈願するという形をとってはいても、その実質は禊祓の行事であり、天皇ご自身の御寿命の長く久からんこと祈願したものであるといえよう。

(五)
 明治天皇は、慶応三年正月九日に践祚し、同四年(明治元年)八月二十七日、即位した。そして明治四年十一月十七日、東京の宮城の吹上御苑において、大嘗祭を行った。この一連の皇位継承の儀式においては、一代一度の天曹地府祭は、ついに行われなかった。
 明治政府は、明治三年、「陰陽寮」を廃止した。そして太政官から土御門氏に対して、天文・暦道のことは以後大学の管轄になる旨を言い渡した。陰陽頭であった土御門晴栄は、天文暦道御用掛に任ぜられたが、同年十二月十九日に「大学星学局御用掛」の職を解任され、ここに天文・暦道は、完全に土御門氏の手から離れることとなった。
 この明治維新の際に、陰陽寮が廃止されて官制としての陰陽道が無くなり、一代一度の天曹地府祭が行われなかったのは、欧米からの新しい文化の移入によって、陰陽道がそのままでは信じられなくなったことにもよるが、外来の信仰の痕跡を一掃しようとした、神道者の復古的な思想の影響も、また大きかったのである。
                                                                                               
 天皇   即位の日         大祭の日
後陽成               慶長六年正月晦日
後水尾  慶長十六年四月十二日   慶長十六年五月五日
明 正  寛永七年九月十二日    寛永七年十二月十四日
後光明  寛永二十年十月二十一日  寛永二十年十月□日
後 西  明暦二年正月二十三日   明暦二年二月十一日
霊 元  寛文三年四月二十七日   延宝八年十月二十二日
東 山  貞享四年四月二十八日   元禄元年十二月□日
中御門  宝永七年十一月十一日   正徳元年十月十二日
桃 園  延享四年九月二十一日   寛延元年十二月五日
後桜町  宝暦十三年十一月二十七日 宝暦十三年十二月二十四日
後桃園  明和八年四月二十八日   明和八年五月二十四日
光 格  安永九年十二月四日    安永十年正月三十日
仁 孝  文化十四年九月二十一日  寛政二年十一月十五日
孝 明  嘉永元年九月二十三日   嘉永元年八月二十一日



日本「宗教」総覧 93 所収    
1993年4月  新人物往来社 発行


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