歴史時代の活動記録

 鳥海火山には歴史時代の活動記録がいくつか残されている(大森,1918;植木,1981).古記録によると6世紀以降の噴火活動があるが,10世紀から15世紀にかけては記録が存在しない.植木(1981)は鳥海山の噴火に関する古記録を検討し,そのうち信ぴょう性の高い記録は9世紀以降,1974年の噴火を含めて12回としている.10世紀から15世紀を除き信ぴょう性の低い記録も加えた場合,10数年ないし150年の間隔で噴火が起こっていることになる.なお,新山溶岩ドームは1800-1804年の噴火の際の1801年に形成されている.それ以前の噴火や噴出物の詳細は不明であるが,歴史時代の噴火は1800-1804年噴火を除くとほとんどが山頂付近での水蒸気爆発と考えられる.

 一般的に,鳥海火山の噴火は弱い噴煙の出現によって始まり,数日-数カ月後に爆発的噴火に至るようである.以下,具体的な記録の残されている噴火についての活動経過を植木(1981)から再録する(一部字句を書換え).

◎ 871年(貞観十三年)の噴火は爆発的噴火であったと考えられる.噴火開始後1ヶ月以内に,山から流れ出る川は,死魚を浮かべた青黒色の強い臭いのする泥水であふれ,流域を汚染し,多くの被害を出した.融雪で生じた泥流の様子を表していると思われる.

◎ 1659年(万治二年)4月に始まった噴火は,4,5年続いた模様である.この間白雪川中・下流域などで稲作に被害が発生した.土石が流下した様子はみられないので,火口付近で湧出した強酸性水が混入したためかも知れない.

◎ 1740年(元文五年)の噴火の場合,6月の噴火開始直後はあまり爆発的でなく,噴煙の量も少なかったが,次第に勢いが強くなった模様である.現在の新山の麓から荒神ヶ岳の麓にかけて東西に近い走向を持つ小火口列が生じ,噴火開始約1ヶ月後にその大きさは,長さ約600m,幅約160mであった.矢島旧記に記録されている1741年10月の噴火は,一連の噴火の末期のものではないかと思われる.この噴火により直接の被害はなかったが,白雪川には硫黄化合物が流れ込み農作物に被害が発生した.子吉川でも同様の被害が出た可能性がある.また,硫化物のため,白雪川河口付近では海藻が死滅し,岩石が白色に変色した.

◎ 1800年(寛政十二年)12月に始まったとみられる噴火も,はじめは噴気または弱い噴煙を出すだけであった模様である.山麓から爆発的噴火が確認されたのは,1801年(享和元年)3月末である.山麓で降灰が見られたのもこの時が最初と思われる.4月末の実見記によれば,当時,七高山の麓から荒神ヶ岳の麓にかけて幅約5mの火口列が生じ,その中の7,8ヶ所から噴煙を放出していた.その後,一時,噴火の勢いは弱くなり,活発な火口は西端の1つだけとなったが,7月に入り再度激しくなり,伏拝岳の東まで火山弾を放出するようになった.噴火は8月末に最も激しかったが,この時が溶岩円頂丘新山の出現に対応するらしい.その後も1804年(文化元年)までは噴煙現象が続き,時々爆発的噴火が発生した.1804年の地震の後,活動がやや活発になったようである.この一連の噴火による噴出物の分布は詳しく記録されていないが,降灰は山麓から仙北地方(秋田県中央部)にかけてみられ,山頂付近での堆積は約30cmと思われる.火山岩塊は七高山から伏拝岳の外側斜面にまで分布した.千蛇谷に落下した最大の岩塊は100kg以上とみられる.1801年4月〜8月には周辺の鮎川,鳥海川(子吉川の上流部をさす),白雪川,日向川,月光川で火山灰による汚濁や土石の流出がみられた.このため日向川,月光川では多くの魚が死んだ.特に被害の大きかったのは白雪川で,8月中旬少量の降雨の後大洪水となり,流域では田畑,家屋が泥に埋められ,河口には大石,大木が堆積したため舟の航行が不可能となった.

◎ 1821年(文政四年)5月の噴火は,前2回とは異なり,七高山の外側斜面と,新山との間の谷の2ヶ所で発生した.この噴火では,活動が活発になる数日前から噴煙が見られたともいう.活動の継続時間,経過は不明である.

◎ 1834年(天保五年)7月に2,3度噴火したとの記録が象潟に残されている.唯一の記録であるため信ぴょう性に疑問が残るが,近世の文書であるから採用する.それによれば,噴火後硫化物が白雪川に流入し,魚が死に,稲に被害が出た.