鳥海山を知る3日旅  

2020年05月26日公開
2020年06月08日修正

 

1. 不思議な県境

鳥海山は東北地方の日本海に面し、遠くからでもひときわ目立つ独立峰だ。秋田富士あるいは出羽富士とも呼ばれ、福島県の燧ヶ岳に次ぎ、東北第2の高峰だ(標高2236m)。
この山は山形県と秋田県にまたがるのだが、長いこと気になっていたことがあった。県境が山頂より北側に3、4kmほど張り出していることだ。一般に県境というのは山頂や稜線を通るものだが、この山では頂上付近の県境が地形とは大きく外れてぐっと北の秋田側に張り出して、山頂は山形県が独占する。さてなぜだろうと。地質調査をしていた1980-90年代には積極的に答えを探そうとしなかったが、最近になったその理由をようやく知った。

鳥海山周辺の県境(赤破線)。山頂付近が北側(秋田県)には張り出している。グーグルマップを使用。


18世紀の初めに起きた事件がある。もともと鳥海山は古くからの信仰の対象だった。中世以降、密教(真言宗と天台宗)の修験の場であり、いろいろな方面から辿る登山道は元来は修験道である。現代と何も変わらないが、そこには山頂の帰属をめぐって必ず争いが起こってくる。その宗派戦争はやがて藩を巻き込んだ領地問題に発展した。秋田県側が矢島藩、山形県側が庄内藩である。山頂には大物忌神社本殿があったがその建て替え工事が発端となった。このときの争いは幕府の寺社奉行まで訴えられ、最終裁決が下った。その裁定結果が現在の県境である。もちろんその後もいざこざは続くのだが、山形県側の庄内藩が勝ったのだ。現在、山頂と山麓の2ヶ所(吹浦、蕨岡)の3つの社を総称して大物忌神社と呼んでいる。以前、庄内平野北端にある大物忌神社吹浦口ノ宮(里宮)の神官や関係者の話をまとめるとそういうことだ。この裁定の記録はそこの宝物庫に残されており、もちろんふだんは見ることはできないが、以前に資料を日干しした際に撮影したという当時の古絵図の写真をスマホに転送してもらい入手した。なお、大物忌神社も例に漏れず明治の廃仏毀釈の大きな影響を受けていた。吹浦口ノ宮にあった仏像は小舟に乗せて海に捨てに行ったのだが、捨てるに忍びなく、こっそり少し北の集落にある寺に持ち込んで今でも残されているとか。また、蕨岡口ノ宮の山門にあった仁王像は、すぐ隣の寺に移され、堂々と構えている。裁決に至るまでには現代で言えば公文書偽造や証拠ねつ造もあったかもしれない。この結果が不自然な県境となったというのである。

 

2. 信仰の対象から登山の山へ

江戸時代には日本列島の多くの山が女人禁制だった。鳥海山も例外ではない。鳥海山に参拝するには口ノ宮近くの御師(おし)の宿坊に泊まり、夜中に参拝して山伏が先達(せんだつ)となり案内してもらうことが山頂へ登る条件だった。明治5年、政府による突然の神仏分離令で多くの御師も山伏も廃業を余儀なくされ、また、多くの山は女性にも解禁された。民間信仰であれ、自然信仰であれ、日本の山は信仰の対象になっていたことが多い。庄内平野の内陸側にある月山、湯殿山、羽黒山は今でも宗教色を色濃く残している数少ない山だ。それに対し鳥海山は、今では修験の山ではなく、登山と観光の対象である。

 

3. 火山の歴史

鳥海山の誕生は約60万年前である。じつは私が調査を開始する前、当時東北大学の大学院生だった林信太郎さん(現在、秋田大学教授)がすでに詳しい地質調査をまとめつつあった。林さんも私も最も時代が古いと判断した岩石の年代がそのくらいだ。年代測定はやみくもにやればよいものじゃない。それにふさわしい岩石を選び、それなりの費用も必要なのだ。林さんが組み立てた溶岩・地層の新旧関係、火山体の形成の歴史、それに共同研究者が時間軸を入れたのだ。この結果は、私が後に調査した結果と細部を除けば変わらない。いかに当時の林さんがよく山を歩いていたかがわかる。林さんの成果があるのになぜ私も必死に歩き回ったのか。それは私が所属する組織からの業務命令という “大人の事情”、さらに私の意地もそれに輪をかけた。

鳥海山の成長過程。ABCの順に現在は右下の“I”。中野(1993)に加筆修正。 日本の火山データベースより。

現在の鳥海山の姿は、東鳥海とそれよりもやや小振りの西鳥海に分けることができる。日本海側に面し山頂部に南西に開いた馬蹄形の崩壊地形を持つ西鳥海、それと、北に開いた馬蹄形の崩壊地形を持つ東鳥海だ。最初にできた山は単一の富士山型をしていたと推定され、それができたのが約40万年前。その後、なんども大規模な山崩れが起こった。北側の由利原高原だけでなく、南側にも広く崩れた堆積物が広がっている。姿を変えながらその後、15万年前頃まで西鳥海が活動、そして東鳥海が活動を何度も繰り返し約1万年前頃には現在よりも高い標高2500mを越えるような山までに成長していた。
鳥海山には2つの馬蹄形の崩壊地形がある。それぞれ東鳥海馬蹄形カルデラと西鳥海馬蹄形カルデラと呼んでいる。カルデラとはスペイン語で釜とか鍋の意味である。日本では一般にカルデラと使うときには直径2km以上の窪みをカルデラと言い、それより小さいのは火口(クレーター)と呼ぶ。
カルデラは必ずしも噴火でできた大きな火口ではない。鳥海山のカルデラは大規模な山体崩壊によってできた大きな窪地であり、崩壊カルデラと分類されている。カルデラと言えば多くの人がその姿を想像できる九州の阿蘇や北海道の支笏湖などは大規模な噴火で陥没した陥没カルデラといい、鳥海山のカルデラとはそのでき方はまったく異なるが、地形用語だと理解しておけばよい。ここでは、カルデラにはいろいろな成因がある、と言うことだけ覚えておこう。
西鳥海の馬蹄形カルデラがいつできたのかははっきりしないが、東鳥海の馬蹄形カルデラについてはよくわかっている。このカルデラ形成後には溶岩が内部を埋め立て、江戸時代には溶岩ドームができている。

 

4. 庄内平野から

ここでは、庄内平野から海沿いを北上して鳥海山北西側の象潟平野に行き、鳥海山中腹の鉾立まで車で移動、そこから山小屋泊まりで山頂まで往復するコースを歩いて見よう。
庄内平野の中心、JR酒田駅からレンタカーが便利だ。酒田と言えば〈本間様には及びもつかぬが、せめてなりたや殿様に〉で有名な江戸時代の豪商、本間家の本拠地だ。酒田の港は北前船で栄え、その名残は山居倉庫に代表される観光地として今でも賑わっている。平野の北側にはたおやかで大きな山体の鳥海山がよく見え、山裾は日本海まで達している。庄内平野の日本海側を庄内砂丘に沿って北上する。平野北端、出羽国一宮だった大物忌神社吹浦口ノ宮の脇を通り、旧道を進んで日本海沿いを進むことにする。すぐに十六羅漢岩が現れる。海岸沿いの溶岩露頭に彫った仏像である。明治時代に彫られたらしいが、波風に洗われてやや円磨されているものの、ごく地味な仏像が海を背に並んでいる。「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」に選ばれているそうだが、そこには賑わいはない。

庄内平野北部から見た鳥海山。右が東鳥海、左が西鳥海。日本の火山データベースより。

 

5. 有耶無耶の関

日本海を眺めながら北上するとまもなく秋田県との県境である海に面した断崖の上に三崎公園がある。このあたりに、“蝦夷”の侵入を防ぐために9世紀頃に築かれた「有耶無耶の関」があったという。海岸沿いの断崖には厚い溶岩が露出している。調査当時、フリークライミングのゲレンデとして何かの雑誌に紹介されていた。確かに確保ロープをかけるための補助ロープが上から垂れ下がっていたのを覚えている。岩の上にはボルトも設置してあった。この溶岩流の噴出年代は確かなことはわからないのだが、発掘された遺物との関係から縄文時代であることは確かだという。中腹の猿穴という場所から海にまで流れた溶岩だが、その流出口である火口地形もはっきり残っており、三崎海岸はその先端の海に面した断崖である。

猿穴溶岩の末端、三崎海岸の海食崖。この付近を中心にクライミングルートがいくつか設定されていて、グレード5.12aのルートもあるらしい。

 

6. みたらせ清水、浜砂鉄

JR小砂川駅の南に小砂川という小さな集落がある。ここは最近テレビでもなんどか放映された湧水がある。「みたらせ清水」というらしい。いったん地中にしみ込んだ雨水や河川の水が、鳥海山の溶岩の割れ目から湧水となってわき出している。濾過され、冷たくておいしく、今でも集落の人は生活に利用している。ただ、知らないと何気なく通り過ぎてしまうほど、その場所はわかりにくい。地元の住民に教えられて細い舗装の道をゆっくりと降りていくと、テレビで見覚えのある風景があった。狭い道路が続くこのような田舎の風景はのどかで大好きだ。

小砂川集落を流れる「みたらせ清水」。


すぐそこなのでついでに海岸まで行ってみよう。小砂川海岸はそれほど広くない砂浜だが、やや明るい褐色の浜に小さな小川が流れ込んで砂鉄が織りなす黒い模様を見ることができる。砂鉄とは、鳥海山を作る溶岩に含まれている「磁鉄鉱」という鉱物だ。
岩石と鉱物の違いはわかるだろうか。岩石というのはいくつかの種類の鉱物やガラス質の物質の集合体である。鳥海山の岩石は安山岩だが、斜長石や輝石という名前の安山岩に代表的な鉱物のほか、大きさ0.1mm程度のずっと細かい磁鉄鉱がたくさん含まれる。磁鉄鉱は比重が大きいため、水流がほかの鉱物と分けるのだ。

小砂川海岸の砂鉄(黒い部分)。

 

7. 象潟の流れ山

さていよいよ象潟平野に来た。象潟平野の〈流れ山〉と呼ばれている地形を見に行く。この流れ山を作った現象が〈岩屑なだれ〉だ。発音しにくい用語だ。〈岩なだれ〉といったほうが一般にはわかりやすいだろうか。
この流れ山は紀元前466年に鳥海山が崩れてできた地形だ。平坦な地形の中に比高5〜10m程度の小さな丘がいくつもできている。山が崩れることを〈山体崩壊〉、崩れたものが一挙に流れ下る現象が〈岩屑なだれ〉、それがたまったのを〈岩屑なだれ堆積物〉という。専門的には、以前は泥流堆積物とか岩屑流堆積物ともいわれていた。「象潟岩屑なだれ堆積物」は、日本の代表的な岩屑なだれ堆積物のひとつである。例えば、1792年に雲仙岳(長崎県)が噴火しているときに、すぐ脇の眉山という山が崩れた。その土砂がすぐ目の前の島原湾に突っ込んで、対岸の肥後国に津波が押し寄せて両岸合わせて1万5千人くらいの死者がでた〈島原大変肥後迷惑〉をご存じだろうか。もっと最近で言えば、裏磐梯(福島県)の湖沼群を作った1888年の磐梯山噴火、また、噴火とは関係ないのだが、地震で山が崩れ29名の犠牲者が出た1984年の御嶽くずれ(長野県)など、全国各地にある。もっと古い時代では、甲府盆地北西の八ヶ岳南部(山梨県)の大崩壊は盆地の南側まで達していることがわかっている。大規模な山体崩壊は大雨などで崩れる土砂崩れとは規模がまったく違うのだ。

山から崩れてきたものには大きなトラックを超えるサイズの岩塊もある。そういうものが流れ山を作った。流れ山の内部を見るには流れ山を崩した採石場や海沿いの半分削れた流れ山を見に行くといい。大きさ10mとか20mくらいの大きい岩がひび割れながら高速で転がるすさまじさ威力が感じられるだろうか。これらはもともとそこにあったわけではない。数kmも10kmも先から崩れてきたのだ。その速度は時速100km程度と思ってくれればよい。鳥海山が崩れる前の山頂部は標高2500mを越えていたと推定されるので、海まで高度差2500m以上も流れ下ったのだ。
この山体崩壊については、堆積物に含まれる木片を使った炭素年代測定が何人もの研究者によって行われ、約2600年前頃に起きたとわかっていた。しかしその後、紀元前466年に起こったことが判明した。それも季節は冬であることも。崩れてたまった堆積物の中にたくさん埋れ木が入っている。大きい埋れ木は神代杉とも呼ばれる。この正確な年代は埋れ木の年輪パターンを調べる手間のかかる方法(年輪年代測定)で求められたのだが、その結果がわかったのは20年ほど前のことだ。

象潟平野の流れ山地形(九十九島の一部)。



象潟の「道の駅」に寄ろう。ここで流れ山地形を展望できる。東側には岩屑なだれの堆積物がたまった平坦な地表面から突き出た部分が流れ山だ。
かつてはここは海水が混じり込んだ湖だった。水の中のあちこちに小さな島があったのだ。それが1804年の象潟地震で約2mも隆起してしまった。海は退き、いまでは平坦面は田んぼ、小山はマツが生える丘となっている。ここは九十九島(くじゅうくしま、「つくもじま」ではない)という名前が付いているが、昔は島だったからだ。
芭蕉がここへ来たのは象潟地震の100年以上前である。「象潟や雨に西施がねぶの花」という芭蕉の句がある。雨に濡れる象潟のネムノキの花を見ると、中国古代の四大美女の1人の西施が憂いに沈んで目を閉じて眠っているようだ、という意味らしい。象潟の昔の風景は、東の松島、西の象潟と言われる名所だったらしい。今の象潟は陸化しているが、以前は水で覆われている所にポコポコと小山が顔を出していたのだ。これをもっと近くで見学するには蚶満寺へ行くとよい。そこには芭蕉の句碑もあるし、象潟地震以前の古絵図も見ることができるかもしれない。

初日の宿は象潟にしよう。夏になれば鳥海山の湧水で育った極上の岩ガキのシーズンである。お好きな方はぜひ一度は象潟の岩ガキを食べられる宿に泊まりたいものだ。

 

8. 上郷温水路群と獅子ヶ鼻湿原

ここから獅子ヶ鼻湿原を目指す。途中、小さな落差を持った石積み(落差工)がいくつも続く川沿いを通る。落差は1段あたり0.5〜2m程だ。これは鳥海山からの雪解け水を春の農業用水用に温めるために考案された施設で、上郷温水路群と呼ばれる。象潟平野では昭和初期から約30年超にわたり、いくつもの温水路が造られていった。2006年、農水省によって「疎水百選」に選ばれており、また、日本土木学会選奨土木遺産2003」にも認定されている。

水温を上げるための上郷温水路群。


まもなく「中島台レクリエーションの森」の駐車場に着く。ここが獅子ヶ鼻湿原の入り口で、徒歩で湿原へ向かう。バスで団体ツアー客が来ていることもある。しばらく森林浴を楽しもう。ここで見られる湿原は馬蹄形カルデラ内を流下した溶岩、つまり、紀元前466年の山体崩壊より後になって流れた溶岩の末端付近からの湧水が作った小さな湖沼群で、国指定の天然記念物にも指定されているそうだ。途中にはもちろんすっとまっすぐ伸びたブナもあるのだが、「あがりこ大王」や「あがりこ女王」と名付けられた多数の奇形ブナの巨木が見られる。「あがりこ大王」は樹齢300年、幹回り7m以上と言われる。数mより高い部分は何本もの幹に分かれている。なぜこのようなものができたのか。江戸末期から昭和まで続いていた炭焼きのために伐採した枝が、芽を出し成長を続けたことがこの独特な樹形を作ったという説が有力らしい。また川底で藻が丸く盛り上がった「鳥海まりも」と呼ばれる藻が見られる場所もある。ただし、阿寒湖のマリモみたいな形状を期待すると少しがっかりするかもしれない。

あがりこ女王 獅子ヶ鼻湿原最上流部の湧水、「でつぼ」。

 

9. ブナの森、法体の滝

駐車場に戻り、鳥海山東麓にある法体(ほったい)の滝を目指す。以前とは違いしっかりと舗装された中島台からの道路は、ブナ林の中を快適にドライブできる。途中にはスギの大木も見られ、 伐採や植林時の作業小屋跡もまだ残されている。
もし新緑の季節の晴れた時に訪れれば、ブナ森は美しくてとても明るい雰囲気だ。多くの樹木は1年に何回か新芽を出すが、ブナは1回だけ一斉に芽吹き、明るい色の新緑の季節が短いのだ。ブナの実を食したことがあるだろうか。あく抜きをせずに食べられるが、飢饉の時に多くの実をつけるとも言われているし、5年から7年くらいの周期でしか実がならないとも言われる。春に見事なブナの花を見て、秋にブナの実を拾いに行ったことがある。粒が小さくたくさん拾うのは大変だが、おすすめは・・・ブナパスタである。

豊かなブナの森。


いよいよ法体の滝だ。「日本の滝百選」に選ばれている。ここも奈曽の白滝と同じく鳥海山の溶岩に懸かる滝なのだが、3段の滝から構成され、一番下が主役の直瀑(三の滝)だ。だんだんになっているので全体を段瀑という。総落差は57mほど、三の滝が落差42mで、末広がりの見事な姿だ。かつて映画「釣りキチ三平」のロケもここで行われたと解説版に書いてある。駐車場から滝は見えるのだが、ずいぶんと遠くに見える。河原には丸い石が多く、ゆったりとした流れに懸かる吊り橋を渡り、滝上まで遊歩道ができている。滝の見事さだけでなく、ここにはもう一つ特徴がある。最上部、一の滝上流部や二の滝河床には大小無数の甌穴と呼ばれる穴があり、滝とともに1960年、「秋田県名勝及び天然記念物第一号」に指定されている。甌穴はポットホールとも呼ばれ、河床の硬い岩盤のちょっとした窪みに川の礫が転がり込み、増水時にその場で礫が回転して動き回り、礫は削れて丸くなり、穴も削れてどんどん深くなっていったものだ。

下玉田川に注ぐ「法体の滝」。「日本の滝百選」に選ばれている。一番下が「三の滝」。
ずっと滝の順番を勘違いしていたが、2019年、ジオパーク関係者から間違いを指摘された。


さて、この岩盤はというと、もちろん鳥海山の溶岩である。専門家がみればすぐにわかるはずなのだが・・・。じつは調査を始めた当時、現地にはこんな看板があった。「・・・大小無数の甌穴群が女川層の硬質泥岩に生じたもので学術的にも珍しく・・・・」。つまり、鳥海山の溶岩ではなく、もっと古い時代の海底にたまった泥が固まった岩石? 調査当時、この看板の写真を記念に撮影しておいた。しかし、2017年に訪れた際はこの看板はすでに撤去され、正しい解説版が設置されていた。そこでは私の作成した地質図が利用されていた。鳥海山を中心とした地域は2016年に日本ジオパークに認定され、本物の専門家が加わってまじめにいろいろ作り直したのだろう。こういう間違った解説版は全国各地で見られたのは実情だ。いろいろ鵜呑みにしないほうがよいこともある。死語となった用語を平気で使っていることも多い。
なおジオパークとは、「大地の公園」とでも訳せばよいのか、2020年4月時点で日本では43ヶ所が認定されている。そのうち9ヶ所は世界ジオパークでもある。地質や地形を中心に、保全、教育、ツーリズムに利用され、保護されている地域である。

 

10. 由利原高原

さあ、あとは由利原高原を回って象潟に戻ろう。由利原高原は鳥海山の北側にあるゆったりとした高原地帯だが、ここでは象潟平野と同じく紀元前466年の流れ山地形と、より古い時代に鳥海山が崩れた堆積物が見られる。天気がよければ流れ山を前景に、後方に鳥海山山頂と馬蹄形カルデラを眺めることができる。かつては高原の西側の高台には多くの石油採掘装置が見られた。やぐらや首振りする鳥のお化けのようなヤツだ。しかし今ではほとんど撤去されてしまった。
数年前、石油井戸をもう一度見てみたくてどこかに残っているかと車で探し回っているうち、パトカーが突然現れ、停止させられてしまった。見通しのよいT字路での一時停止違反だったが、木の陰に隠れて狙っていたのだ。ただ、親切な二人連れのおまわりさんだった。うろうろしていた事情を説明すると、まだ残っている場所が近くに1ヶ所あるが場所がわかりづらい、案内するよと。パトカーに先導されて廃墟になった施設を見に行くことができた。パトカー先導は初めてのことだ。やぐらと空っぽになった小屋が残っていた。もちろん、罰金は免除とはならなかったのだが。

由利原高原より見る鳥海山の東鳥海馬蹄形カルデラ。手前は紀元前466年の山体崩壊がもたらした流れ山地形。
日本の火山データベースより。

 

11. 奈曽渓谷、西鳥海

今日はいよいよ鳥海山山頂を目指す。ブルーラインというかつての有料道路を登って中腹にある鉾立の駐車場まで上がり、登山口に降り立つ。鉾立の駐車場からは鳥海山の山頂がよく見える。ずいぶんと遠い。すでにここは樹林帯を越えている。少し低木帯があり、すぐに灌木とハイマツ帯になる。この日は山頂直下の山小屋(大物忌神社奥宮)を目指す。
この日はゆっくり5時間くらいの見通しのよい緩やかな登りだ。山頂方向、駐車場のすぐ裏手には深い渓谷が見える。急崖に囲まれた奈曽渓谷という深い谷だが、登山道はまずはその縁を通る。ロープが張ってあるが左に落ちたら大変だ。登山道からは白糸の滝という落差はあるが水流の少ない滝がちらっと見える。谷底まで300mくらい落差があるらしいが、谷底は見えない。かつて谷底を歩いた際にはこの滝がどこに落ちているのかよくわからなかった。昔はこの付近から谷底まで降りる道があったとも聞いた記憶があるが、真偽のほどは不明だ。

満開のニッコウキスゲが咲くお花畑。

 

見晴らしのよいお花畑の中を日本海を背にして2時間ほど歩くと御浜神社に着く。ここまでずっと西鳥海だ。ここは宿泊のできる山小屋があり、南西に向かってえぐれている西鳥海のカルデラの縁に建っている。小屋の裏手に回るとよく見えるが、このカルデラの中には鍋森という名が付いている溶岩ドームがあり、さらに鳥海湖(鳥ノ海)と言われる小さな火口湖がある。この西鳥海の馬蹄形カルデラも山が崩れてできたもので、その後に鳥ノ海火口や鍋森溶岩ドームなどができたことがわかる。その時代は15万年前から2万年前の間であるが、その間でもわりと新しい時代だと思う。
溶岩ドームとは、溶岩が火口から出ても斜面を流れ下らす、粘性が高いためにお椀を伏せたようにもっこりと盛り上がる溶岩の高まりだ。かつては溶岩円頂丘と言っていたが、ドームと呼ぶのが今の世の主流だ。

西鳥海の鍋盛溶岩ドーム(右奥)と手前に鳥の海火口(鳥海湖)。 日本の火山データベースより。

 

12. 東鳥海、新山溶岩ドーム

カルデラの縁を快適に歩くとまもなく東鳥海の縁につながる。こちらは崖が切り立っている。崖の様子から2つのカルデラができた時代の違いがわかるだろう。このあたりから振り返って北側の奈曽渓谷の縁を双眼鏡でよく見ると岩脈が見えるかも知れない。鳥海山の長年かかった調査で、鳥海山で見つけた唯一の岩脈だ。岩脈とはマグマが地下から上昇してきた通り道である。特徴的な形の岩石が積み重なっているのだが、これはその場に行かない限り見られない。もちろんそこまで登山道も踏み跡もないが、崖の真ん中に縦方向に伸びた岩があるのだ。これは現地に行った人にしか気づきようのない場所で、もちろん登山ロープ必携である。

東鳥海の新山溶岩ドームとカルデラ壁。日本の火山データベースより。

 

しばし山頂を見ながら進もう。東鳥海のカルデラの縁、七五三掛(しめかけ)で登山道はカルデラのヘリを歩く道と中に降りていく道に分かれる。溶岩と火砕岩が重なる崩れやすい崖を下り、カルデラ内の小径を辿ろう。ここまで来ると山頂はもう間近だ。山頂は1801年にできた溶岩ドームである。ここが鳥海山の最高峰、新山である。手前に溶岩流が押し出してきている。
古文書によるとこの時の噴火は1800年から始まり1804年まで続いた。噴火の古絵図も残っている。10数人が噴火を見に行き、その中の8人が飛んできた岩塊(噴石)に当たって犠牲となったと記録されている。噴石による犠牲は2014年の御嶽山噴火はまだ記憶に新しいところだ。ただ、御嶽山と違い、マグマが地表に出て溶岩ドームを形成したマグマ噴火だったのだ。
溶岩のブロックの上を歩いてまもなく山頂直下の山小屋に着く。大物忌神社の奥宮(本殿)だ。ここに荷物を置き、頂上の新山を往復しよう。山頂直下はまさに絞り出したような溶岩の模様が垂直に立っており、下から絞り出されたようにも見える。

東鳥海のカルデラ壁に見られる累重する溶岩。溶岩1枚は厚くても5m以内。 日本の火山データベースより。

新山溶岩ドームの生々しさにも目を奪われるが、もう一度東鳥海のカルデラの壁にも注目していただきたい。溶岩が何枚も何枚も積み重なっているのがよく見える。それらはどこから流れ出したのか、山体崩壊の前には今よりもずいぶんと高い山だったと想像できるだろう。地質調査ではこの積み重なった溶岩を1枚1枚チェックするため、新山の東側の崖だけでなく北に下る沢筋(赤川源頭部)で詳細な岩石採取を試みたのだった。

さて翌朝は早く起き、もう一度新山へ登ってみよう。運がよければ「御来光」と「影鳥海」が見られることがある。影鳥海は富士山の影富士と同様、山の影が雲に映る現象だ。鳥海山の影が日本海に映るのが朝早くだけ見られる。もし幸運にも両者が見られたら、その時は鳥海山の虜になるに違いない。