立山火山を知る 1 弥陀ヶ原編

2022年10月13日

 

1. 立山信仰


立山連峰は剣岳とともに富山平野からよく見え、富山県のシンボルだ。いずれも深田久弥が選んだ日本百名山である。江戸時代、ここは富山藩でなく、加賀藩の領地だっだ。加賀藩の主な領地は隣の石川県だ。富山藩の領地は越中国(現在の富山県)のごく一部だったに過ぎない。

立山は古くから山岳信仰の対象たっだ。奈良時代から始まったとの説もあり、「立山曼荼羅(まんだら)」が有名である。ほかの山岳信仰の場と同じくここも例にもれず過去には女人禁制であり、また、明治政府の神仏分離令の多大な影響を被っているはずだ。立山の山頂には雄山神社の峰本社がある。ふもとには芦峅寺や岩峅寺という地名がある。芦峅寺と言っても今は集落名で、かつては岩峅寺集落ともに宿坊や寺などの宗教施設で栄えていた。芦峅寺には33の宿坊があったと記録されている。そこには寺はなく、そこにあるのは中宮寺と呼ばれていた雄山神社芦峅中宮祈願殿だ。多くの山岳ガイドを輩出していることでも有名だ。ご神体は立山そのもの。今でも称名滝、弥陀ヶ原、大日岳、浄土山など仏教を感じさせる地名がいくつも残されており、古くからの修験道の名残を感じされてくれ、 神仏習合の名残がいたるところに残されている。

 

2. 立山火山の成長の歴史


立山と言うときは“立山連峰”と“立山火山”の区別をきちんと覚えておく必要がある。立山連峰あるいは立山三山(雄山、大汝山、真砂岳)は数千万年以上昔の古い時代の岩石から構成されている。立山火山とは、その西側に広がる室堂平や地獄谷、そして弥陀ヶ原を中心とした地域、そして五色ヶ原を含む火山である。

この火山が噴火を始めたのは22万年頃前である。その時代の地層には溶岩のほか、水中にたまった砂や礫の地層も見られるので、浅い湖があったようだ。その後、五色ヶ原付近を中心とした活動が15万年前から10万年前まで続いた。そして大規模な火砕流を噴出する活動が10ないし9万年前に発生した。最近の研究では、火砕流発生は1回ではなく2回らしい。その2回目は少し新しく6万年前かもしれないが、それについては私自身はまだ確信がない。その後、4万年前ぐらいまで、弥陀ヶ原周辺の国見岳や天狗山などの山を作る火山活動が起こった。その間には少なくとも2,3回の氷河の消長、つまり氷河期があったのは確実である。そして最新の活動期は今から2万年前以降である。室堂平・地獄谷を中心とした活動で、それが細々と現在まで続いている。立山火山を全体としてみると、火山活動は南方で始まり、時代とともに北端に位置する地獄谷付近に活動の中心が移動してきているのだ。

 

立山火山周辺の火口位置(赤丸)。南から北に移動した。日本の火山データベースより。

 

 

3. 称名滝、溶結凝灰岩


 JR富山駅から富山地方鉄道に乗るとその終点が立山駅である。まずはここからバスかタクシーで称名滝を見に行こう。この滝は3段になっていて落差は合わせて350m。その上が鋭いV字谷になっていて、それも入れると崖の高さは500mになる。日本でも有数の落差を持つ見事な滝で、もちろん「日本の滝百選」に選ばれている。これは10ないし9万年前の火砕流が固まってできた岩石である。火砕流が固まったので、溶岩ではなく火砕岩だ。同様の岩石で作られたこの滝の周りの壁はとてものっぺりといる。滝手前の左岸側の壁も「悪城の壁」と呼ばれ、繰り返される雪崩で削られた特徴的な地形を示している。

称名滝(左)とハンノキ滝(右) 。

 

溶結凝灰岩が雪崩で削られて出来たアバランチシュートの発達する悪城の壁。

 

鬼ヶ城谷の溶結凝灰岩。酸化のため赤くなっているが、軽石が扁平になったレンズ状の黒色レンズが特徴的な溶結構造。

 

 

火砕流をもう少し詳しく説明しよう。火山が噴火した時に、火口あるいはカルデラから噴き出した数100度以上の高温の火山灰や軽石が時速100km以上の高速で地表面を流れ下る現象だ。これは多くの犠牲者が出た長崎県の雲仙普賢岳)で1991年に起こった火砕流と比べ、その規模は桁違いで、高温かつ自重でそれ自体がつぶれてしまい、溶結凝灰岩という固い岩石になる。その現象を溶結というので溶結火砕岩とか溶結凝灰岩という岩石名になる。火山灰や軽石は普通は軽くてサラサラとかガサガサしているのだが、溶結したものはまるで溶岩かと思うような見かけの固い岩石となる。丸い形の軽石がつぶれてレンズのような形になっているのがいちばんわかりやすい特徴だ。滝の下流に転がっている岩を近くでよく見ると、レンズ状になっている黒いガラス質の部分が見えるはずだ。

私が命名した称名滝火砕流だが、その後の富山大学の石﨑泰男さんのグループの研究では、この火砕流がどうやら時代の離れた2回の大噴火による火砕流に分かれるらしい。10万年前くらいと6万年前くらいというが、そうかもしれない。称名滝はごく一部の先鋭的クライマーだけが登れる程度の難しいルートだが、石﨑さんの後輩の登山家が登攀しながら滝の全貌を詳細に撮影したらしく、それによると途中で活動休止期を挟むような何らかの境界が見られたそうだ。 その登山家は澤田 実さんというのだが、北海道大学で地質学を専攻していた。残念ながら、2019年の春、カムチャツカ半島の山で滑落死してしまった。

水量が多いときは称名滝の右側に落差500m近いハンノキ滝が現れる。谷沿いに上流側からこの滝の落ち口まで下ったことがある。確かにその表層は火砕流ではない。しかし、それよりも下の部分はまったく覗くことができない。遠くから見る限り1枚の、つまり、一連の連続した噴火による火砕流が固まったものに見えるのだった。

落ち口から落差500m下を眺めている時、かわいいオコジョがひょこひょこと姿を現した。カメラを向けるとすぐに逃げてしまう。一瞬の隙間を狙ってシャッターを切る。厳しい調査の中でもしばしの心の安らぎを与えてくれる瞬間だ。

 

4. 材木岩、柱状節理


 いよいよ立山駅に戻って立山黒部アルペンルートを進もう。もちろん一般車は乗り入れられない。美女平駅までケーブルカーで一気に上がる。最近、別の場所に新たにロープウェイを架ける構想も出てきているそうだが、そう簡単には決まらないだろう。

ケーブルカーで上がる途中に材木岩という場所がある。一瞬だが左側のガラス越しに見える。よく観察したいのなら、美女平駅から少し歩いて下ってみるといい。柱状節理の見える露頭としては、それほどの大きさではない。

ここは立山火山の中でもかなり古い15万年前くらいの安山岩の溶岩だ。溶岩が冷えて固まるときに規則正しくできる割れ目を節理というが、それが柱のような形をして規則正しく並んでいる。これを柱状節理という。柱状節理はそれほど珍しいものではないが、立山火山で見られる場所は少ない。柱の断面はほとんどが六角形だ。

 

5. 弥陀ヶ原から室堂平へ


 美女平から先は緩い傾斜になっていて、室堂平まで1時間ほど高原バスに乗る。高原バスは立山杉と呼ばれる太い杉の林、そしてブナ林を通る。バスは大観台という場所でいったん停車し、称名滝を見せてくれる。やがて弥陀ヶ原という低木だけの開けた平坦な景色になる。車中からもいくつかの池溏が見え、散策している人も多い。

気象庁はこの火山を〈弥陀ヶ原火山〉と呼んでいる。私のような地質学者は少し離れた五色ヶ原も含めて〈立山火山〉と呼んでいる。混乱するようだが申し訳ない。バスはつづら折りの道をゆっくりと進み、やがて左手にソーメン滝や三角形に尖った剣岳の勇姿を見ながら室堂平のターミナル駅に着く。駅の階段を上って地上に出るとそこはいよいよ室堂平だ 。

 

6. 氷河の名残


室堂平は外国人を含め多くの観光客でごった返している。少し歩くと気がつくが、どう見ても火山岩ではない岩石がたくさん転がっている。なぜだろうか。それは氷河が運んできた立山連峰を作る古い時代の岩石がゴロゴロしているからだ。一般的に岩石とは、火山岩のほか、地下深くでマグマが固まった深成岩、泥や砂がたまって固まった堆積岩、そしてそれらが高温や高圧で変化した変成岩、などと大きく分類されているのだが、そういうものもここに多いのだ。

もともと室堂平は溶岩の上だ。固まった溶岩台地の上を流れてきた氷河が地面を削って平らにし、氷河が消えても上流から運んできた残骸を残したのだ。立山火山はその火山活動の途中で氷河が存在したことが確実にわかる、日本ではまれな火山である。

遊歩道を歩くと、称名滝を作っているものと同じ岩石が敷き詰められている。これは溶結凝灰岩だが、よく見ると、細く伸びたレンズ状になっているところがたくさん見える。山麓で採石・加工したものだが、溶結凝灰岩の観察にはこの場所はもってこいだ。一見硬そうだが、溶岩よりはずっと軟らかく、加工しやすい。

溶岩に残された氷河の擦痕。溶岩の流理構造と擦痕が斜交する。

 

7. 立山火山噴火の古文書記録


江戸時代、室堂平北の地獄谷から加賀藩が盛んに硫黄を採って運んでいた記録がたくさん残っている。そのためか、山中でおこる事件もいくつも記録が残っており、1836年の小さな噴火のことも書かれている。

現地調査では1回に15日から20日間ほど滞在するが、雨の日には基本的には山中に入りたくない。そういうある雨の日、富山市内の県立図書館に1839年の古文書資料を探しに行った。しかし、なかなか記事が見つからない。もちろん、考古学者や歴史学者じゃないので行書体で書かれた文章はほとんど読めないのだが、わずかに読めるいくつかの漢字を頼りにめくっていく。この噴火記録を紹介していた書籍はすでにあったのだが、実物を確かめたかった。ところが、ぜんぜん見つからない。図書館の係員にも探してもらったがやはりない。おかしいなあと。図書館の係員は、もしかしてと似た名称の別の古文書を出してきて探してくれ、ついに見つけた。じつは古文書の名称が違っていたのだ。実物のコピーをとり、その解読を立山博物館の学芸員にお願いした。その後、東京の日比谷図書館(当時)にも同じ内容が書かれた古文書の記事があることも確認できた。

そのほかにも噴火とおぼしき記録がある。明治時代の地質学者が西暦704年と1839年に噴火があったと1890年発行の学会誌に書いている。しかし、その原本だった古文書はとうとう見つけられなかった。調べてもらったところ、ずいぶん前に火事で消失したという。まだ解読されてない古文書も地元にはたくさんあるらしい。今後、新たな噴火記事が見つかるかも知れない。

そのほか、1940年代に少なくとも2回はごく小規模な噴火があったらしいことが記録されている。一つは1946年に撮影された写真があるものだ。また、硫黄の火事も何度も発生しているが、自然発火らしい。地獄谷の噴気活動はいつになったら低下するのだろうか。まだまだ心配な山である。

 

 

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