上 高 地 1915年の激しい噴火では、泥流が梓川をせき止めて上高地の大正池が生まれました。大正4年にできたので大正池と名前が付けられました。ところで、上高地はなぜあんなに広いのでしょうか。じつは、焼岳火山が生まれる前は今のような上高地はなかったのです。
現在の梓川は上高地から松本盆地を経て信濃川にいたり、日本海に注いでいます。しかし、かつては西側(飛騨)に流路が続いて富山平野につながっていたらしいのです。70万から60万年前くらいだしょうか、焼岳のやや西方で大規模な噴火がおこりました。この噴火前までは、現在の小八賀川へ流路が続いていましたが、その流れが堰き止められ、梓川はやや北に流路を変え、高原川につながりました。この噴火をおこした火山は上宝火山あるいは貝塩火山とも呼ばれますが、火山体そのものは残っていません。そこから噴出した大規模な火砕流が堆積した火砕流台地が焼岳の西方に広がっています。
2.6万年前頃、新期の火山群が噴火をはじめ、白谷山が成長し、梓川を塞ぎ始めました。やがて湖ができます。それが上高地の始まりです。平坦な上高地の地形はこの湖に流れ込んだ土砂が厚く積もってできたのです。土砂は厚いところでは400mもたまっているとされています。やがて湖は満水となり決壊し、現在の梓川の流路になりました。上高地の入口、釜トンネル付近に押し寄せた4000年前の溶岩が、道路の対岸にせまって川を狭めているのも観察できます。この一連の変化は、1915年噴火で大正池ができた事件とは比べものにならない長い年月の、しかも大規模な出来事だったのです。広く平坦な河原が10kmほども奥まで続く上高地は、このような歴史を経た産物なのです。上高地は火山が生み出し、そして変化させているのです。大正池が埋まっていくのも自然のなすわざです。