尾 瀬
(2007年6月)
至仏山は蛇紋岩の山、燧ヶ岳は火山だ。高山の湿原として、尾瀬ヶ原の知名度は群を抜いている。尾瀬ヶ原・尾瀬沼の誕生には燧ヶ岳の噴火が深く関わっている。
●至仏山は“ウルトラ”の山
比較的なだらかな山容の至仏山の岩石は、古生代終わり頃(ペルム紀)に形成された蛇紋岩だ(図1)。恐竜が繁栄した中生代より前だ。蛇紋岩は地下深くのマントルを作る岩石が地殻変動で地表付近に上昇してくる際に、水と反応して変化してできた岩石である。この岩石が至仏山を中心に南北5km、東西2kmに渡って分布している(図2)。ただし、岩体すべてが蛇紋岩ではなく、山頂付近などの一部は専門用語で“輝岩”という名前の水と反応していない(変成していない)超苦鉄質岩である。地質の専門家が口にする“ウルトラ”とは蛇紋岩を含めこれら超苦鉄質岩のことである。こららの岩石はマグネシウムやニッケル、クロムが多いなどの特異な成分をもつ。至仏山は蛇紋岩の山として岩手県の早池峰山とともに有名だが、この特異性ゆえに多数の特殊な高山植物が生育するのだ。
図1:至仏山山頂付近の蛇紋岩。遠方は平ヶ岳。
図2:尾瀬付近の陰影付地質図。岩石の種類、時代ごとに色分けされている。20万分の1地質図「日光」(地質調査所、2000年発行)に国土地理院の数値地図50mメッシュ(標高)を使用して陰影をつけた。
●尾瀬周辺の火山
尾瀬ヶ原の南に位置するアヤメ平・白尾山・荷鞍山などは、アヤメ平火山と呼ばれるおよそ160万年前に活動した少し古い火山である(図3)。なだらかな山容の表面にアヤメ平や横田代などの高層湿原が広がるが、溶岩が流れ出した火口もなにもかも削られてしまい、火山らしさはあまり残っていない。それに対し尾瀬沼の北に位置する燧ヶ岳はおよそ16万年前に誕生し、溶岩を繰り返し噴き出して成長してきたごく新しい火山、成層火山である(図4)。最新の噴火は1544年、泥流が檜枝岐川を下ったと古文書に記録されている。現在ではこれをもとに、燧ヶ岳は“活火山”と認定されている。このような火山活動が尾瀬の地形形成に大きな影響を及ぼしているだろうことは想像に難くない。
図3:燧ヶ岳より見た尾瀬ヶ原。後方は至仏山、左手はアヤメ平。
図4:至仏山より見た尾瀬ヶ原。後方は燧ヶ岳。
●平滑の滝、三条の滝
尾瀬沼を源流とする只見川に懸かる平滑の滝は、燧ヶ岳火山から流れ出した安山岩溶岩の上に形成された、長さ500mにも及ぶ渓流瀑だ。その溶岩は平滑溶岩と名付けられている。その下流には落差100mにも達する直瀑、三条の滝がある。よく見ると落ち口とその下では地層の色が違うのがすぐ分かる。上部は安山岩、下部は古い時代の花崗岩である。滝の下流側へは花崗岩が続く。ここでは軟らかい花崗岩が水流に削られるのに対し、硬い安山岩が水流に耐え、造瀑層となっている。●湿原
湿原とは泥炭が生産されるところ(泥炭地)である。すなわち、植物の生産量が枯れた植物の微生物による分解量を上回る場所だ。そのようなところは、気候、地形・地質などの条件が微妙にバランスが取れているのである。湿原ができるためには、もちろん平坦な地形がなくてはならないが、水が多すぎると池や沼になり、少なすぎると草原や林になってしまう。周囲からの多量の土砂が流入するとすぐに干上がってしまい、湿原は生き続けられない。気温が低くても高くてもだめだ。高山の湿原もやがては乾燥し、山地草原や森林に移行することもある。したがって、湿原でいられるのはどんなにがんばってもそう長いことではない。
湿原では、枯れたり倒れたりした植物が分解せずに堆積して泥炭ができるのだが、その泥炭が水面より下にできるのが低層湿原、水面より上にできるのが高層湿原である。湿原が標高の高いところにあるかどうかではない。日本の高層湿原は、泥炭の堆積とともに水面より高くなって低層湿原から移行したものが多いし、また、いまは低層湿原でもやがては高層湿原となりうる運命を持つもの、現在移り変わりつつあるものなど、さまざまな過程のものがある。尾瀬ヶ原は高層湿原だが、尾瀬沼はまだまだ低層湿原にもならない。高層湿原では酸性土壌、貧栄養状態で、それに耐えうるミズゴケ類が生育している。
図5:南東上空より見た燧ヶ岳と尾瀬沼。
●尾瀬沼と尾瀬ヶ原の誕生
尾瀬ヶ原で、現在の地表面を構成する泥炭層が形成され始めたのはおよそ1万年前からである。この泥炭層の厚さはたかだか5m程度である。
さて、尾瀬ヶ原はどのように誕生したのだろうか。尾瀬沼は、燧ヶ岳山頂部の大規模な山崩れによってせき止められてできている(図5)。この出来事は燧ヶ岳の火山活動の中でも、比較的新しい時代の出来事だ。尾瀬沼西方に見られる高さ10-40mの小丘群が山崩れの堆積物、“流れ山”だ。この流れ山を取り囲む水はけの悪い平坦面に、白砂湿原や小沼湿原などが形成されている。
一方、尾瀬ヶ原は尾瀬沼のような湖(尾瀬湖、あるいは、古尾瀬ヶ原湖)が埋め立てられて浅くなり、やがて湿原に変化した、と長いこと言われてきた。この説は一般的な高層湿原の成因説に基づくものだ。ここ尾瀬ヶ原では、戦後3度にわたる総合学術調査が行われてきた。その中心メンバーとして参加した阪口 豊さん(現在、東京大学名誉教授)により、この説は尾瀬ヶ原ではほとんど当てはまらないことが明らかにされてきている。
燧ヶ岳火山が成長を始めたのはおよそ16万年前のことである。西側に流れ出した溶岩がかつての只見川をせき止め、湖を形成した。燧ヶ岳の火山活動の中では比較的古い時代の出来事だ。これはたぶん、かなり正しい。ところが、現在の湿原ができるはるか以前、“尾瀬湖”は埋め立てられて一旦は消失してしまい、完全に干上がっていたというのだ。しかも、大きな湖があった証拠が見つからない。また、湿原の泥炭層の下には、湖底にたまった堆積物ではなく、砂や礫などの河川にたまった粒の粗い堆積物が見つかっている。さらに、現在の湿原を構成する泥炭層よりも古い泥炭層が、地下に幾層も埋もれているのが発見された。すなわち、尾瀬ヶ原湿原は“尾瀬湖”が干上がって直接生まれたのではない。一旦干上がった後の盆地には川が蛇行し、川の氾濫による砂礫の堆積と湿原の成長が繰り返されていたのだ。そして、現在の湿原は、河川の後背湿地や洪水で溢れ出た水がたまってできた池から成長し始めたのだ。それは約1万年前のことである。
尾瀬ヶ原湿原は、気候や地質・地形などがバランスよく整ったからこそ形成されてきた。地質学的にも、人類学的な時間尺度で測っても、湿原ははかない命なのだ。