赤城山と榛名山

(2007年10月)

 

 赤城山も榛名山もなければ関東平野はもう少し広かったに違いない。そう、なかったはずだ。いずれも同じ頃に誕生した火山だ。そして火山という目で見ればどちらもよく似た山だ。かつてはいずれも2,500mの高さでそびえていた。今では山肌は浸食が進み、裾野を広げている。山頂部にはカルデラがあり、カルデラ形成の後に成長した溶岩ドームを複数持っている。遠方より見ればいくつものピークが連なるギザギザした山だ。そして、いずれも気象庁によって活火山と認定されているのだ。

 

赤城山
標高1,828mの赤城山は、底径35km×22kmの裾野を広げる大きな成層火山だ(図1、図2)。その長大な裾野は山が崩れた堆積物や土石流、さらには火砕流の堆積物から構成されている。山頂にカルデラ(2km×4km)があり、その中には中央火口丘の地蔵岳や小沼(この)が形成されている。小沼は火口にたまった湖だが、大沼(おの)はカルデラ底にたまった湖だ。最近では“おおぬま、こぬま”と呼ぶ人も増えたそうだが、“おの、この”が本来の呼び方だ。
 火山の誕生は30万年前よりは前、50万ないし40万年前だろうといわれる。最初に標高2,500mほどに達する富士山型の成層火山がつくられた。20万年前ころから山体の大崩壊や爆発的な噴火が起こり、山麓に裾野が広がった。約5万年前、大量の軽石を噴出して山頂にカルデラが形成された。赤城山の最高峰、黒檜山がこのカルデラ壁の最高地点である。そのほか薬師岳、鍬柄山などがカルデラを構成している。約3万年前、黄白色で非常に発泡がよい大量の軽石が噴出した。これが園芸用で知られる鹿沼土だ。そして約2万年前、地蔵岳溶岩ドームや小沼溶岩ドームが形成された。長七郎山や朝香嶺に取り囲まれた小沼はドーム形成に引き続いた数百回の小規模噴火で拡大した、溶岩ドームにできた大きな火口跡である。
 鎌倉時代に記された「吾妻鏡」に「1251年赤木岳焼く」との記事がある。地蔵岳の東麓で見つかっている小規模な水蒸気噴火の堆積物がこの時のものに相当するかもしれない。しかし、この記事は山火事だという説も有力だ。赤城山を本当に活火山としてよいのか怪しいという火山学者もいるくらいである。

 

図1:榛名山麓より望む夕暮れの赤城山と月。

 

図2:赤城山の地質図:地形陰影をつけた地質図。山頂部に小型のカルデラ、山麓、特に西や南斜面に広く裾野が形成されている。地質図:須藤ほか(1991)20万分の1地質図幅「宇都宮」,地質調査所発行。

 

榛名山
標高1,448mの榛名山は、底径28km×22kmの裾野を広げる大型の成層火山だ(図3、図4)。山頂部には開析された氷室(ひむろ)カルデラと、榛名湖を中心とした3×2kmの小型のカルデラ(榛名カルデラ)があり,その内側から東中腹にかけて後カルデラ期に形成された榛名富士、二ッ岳などの少なくとも5つの溶岩ドームが東西方向に配列している。
 榛名火山の誕生は30万年前よりは古いらしい。最初に富士山型の成層火山体が形成された。最盛期には標高2,500mくらいあったらしい。そして浸食によって山麓に広大な扇状地が形成されていった。20万年前ごろに大規模な火砕流の噴火を繰り返し、陥没によって氷室カルデラが形成された。この古いカルデラの大部分は後にできたカルデラで大部分が破壊され不明瞭になっているが、天目山や氷室山などがそのカルデラの一部であり、後のカルデラ壁の一部として残っている。約4万年前、山頂部で大規模な噴火がおこった。この時は大量の軽石を降らせたほか、大規模な火砕流が発生し、陥没によって榛名カルデラが形成された。最高峰の掃部ヶ岳のほか、烏帽子ヶ岳などがカルデラを構成する。榛名湖はこのカルデラ底の西側にたまった湖である。その後、カルデラ内外に溶岩ドームが噴出するようになった。榛名富士が生まれたのは約3万年前だ。カルデラより東の相馬山、水沢山はこれよりも若い溶岩ドームである。
 6世紀、2回の大規模な噴火がおこった。いずれもカルデラより東、現在の二ッ岳付近である。相馬山との間のオンマ谷を介して現在の二ッ岳を取り囲む直径1km余りの円形の北東に開いた地形がそれであろう。6世紀前半の噴火は激しいマグマ水蒸気噴火で、発生した火砕流は東山麓の渋川から前橋近辺までの広範囲を覆った。噴火直後には広範囲にわたって洪水が発生した。そして6世紀後半、ふたたび二ッ岳付近で激しい噴火がおこった。6世紀前半の噴火とはおよそ数10 年程度の時間間隙があるらしい。この噴火では軽石や火山灰の噴出に引き続き、東山麓を中心に火砕流が流下した。一連の噴火の最後に、二ッ岳とはいいながらじつは3つのピークからなる溶岩ドームが火口に出現したと考えられている。
 この二ッ岳の噴火を記した古文書はまだ発見されていないのだが、考古学抜きではこの噴火を語れない。それは東-北東麓(現在の渋川市)で発掘された黒井峯遺跡と中筋遺跡に代表される集落跡が物語る。6世紀の2回の噴火が当時の人々に大災害をもたらしたことが、遺跡の発掘から明らかになっている。1982年、土地改良事業の際に2mの厚さの軽石層の下から発見された黒井峯遺跡は、6世紀2度目の噴火で埋もれた集落跡だ。住居や倉庫、家畜小屋など、軽石の下に埋もれた集落跡が発見されたのだ。引き続き1986年、住宅建設に伴って発見された中筋遺跡は、6世紀最初の噴火で埋もれた集落跡だ。このときの噴火では大量の火山灰が降り注ぎ、その後に発生した火砕流が住居などを吹き飛ばして集落が壊滅したのだ。
 この二ッ岳の噴火は、再び発生したらと想像するだけでも恐ろしい。しかしその後の榛名山の噴火は知られていない。現在の榛名山では顕著な噴気活動もないし、山体直下での火山性地震も発生していない。伊香保温泉でのんびり過ごすにも、当分は火山の様子を気にしなくてよいだろう。

 

図3:草津白根山より見た榛名山全景。

 

図4:榛名山の地質図:地形陰影をつけた地質図。山頂カルデラ内に榛名富士、カルデラの東側に二ッ岳溶岩ドームがあり、北東から南東麓にかけて二ッ岳の火砕流堆積物(ピンク色)が広がる。地質図:中野ほか(1998)20万分の1地質図幅「長野」,地質調査所発行。

 

 これらの火山は利根川を対峙してそびえるのだが、最近このあたりでも大きな火山災害が起こっている。といっても、ここが噴火したのではない。もっと上流の山だ。それは1783年、浅間山の大噴火(天明の噴火)だ。軽石や火山灰が空から降ってきただけではまずは大した被害は発生しない。ところが、浅間山から北側に流れ下った堆積物(岩屑なだれ)が吾妻川を堰き止めた。やがてそれが決壊し、土石流となって一気に下流の利根川に流れ込み、赤城山・榛名山の麓にも大きな被害をもたらしたのだ。2万年以上前には同様なことがもっと大規模におこっている。

 

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