御嶽火山の歴史
(2007年11月)
岐阜・長野県境にそびえる木曽の御嶽山(御岳山)。1979年に噴火し、地元住民のみならず火山専門家をも驚かした。これを機に活火山の定義が変更されることになったほどだ。この山は乗鞍火山列南端の活火山だ。最高峰の剣ヶ峰は3,067mに達しており、日本の火山としては日本一の富士山に次ぐ標高を誇る(図1)。日本には標高2,000mを超える火山は少し古いものも含めると30余りあるが、そのうち国立公園でも国定公園でもないものは、この御嶽山以外では100万年以上前に噴火した火山、群馬県の武尊山(2,158m)だけである。
図1:北東よりみる冬の御嶽山。いくつもの山の集合体であることがわかる。
御嶽火山は寿命がずいぶんと長い火山だ。古い時代の火山(古期御嶽)と新しい時代の火山(新期御嶽)に二分される(図2)。新期御嶽は、古期御嶽の中央にできた大きなカルデラを埋め立てて成長した継母岳火山群と摩利支天火山群である。現在の山頂部には、新期御嶽の後半に活動した火口が、南から一ノ池、二ノ池、三ノ池、四ノ池火口などと命名されている。
古期御嶽火山は4つの火山の集合体だ。約75 万年前に活動を開始し、約42万年前に噴火活動を停止した。それぞれの火山は少しずつ火口を移動しながらそれぞれ数万ないし10万年間活動した。古い順に、東部火山群(75-65万年前)・土浦沢火山(68-57万年前)・上俵山火山(54-52万年前)・三笠山火山(44-42万年前)と命名されている。いずれも安山岩質の溶岩・火砕岩を主体とし、玄武岩やデイサイトの溶岩も含まれる。
古期御嶽火山の活動終了後、約30万年間の活動休止期が続いた。その間、噴火がストップしたのだ。その間に山体の崩壊や浸食が繰り返された。30万年後に再び活動を始めたというよりも、新しい火山がちょうど重なっていると思ってもよいだろう。
図2:中央の新期御嶽と周囲を取り囲んで分布する古期御嶽。三角形に近いカルデラが古期御嶽に形成され、その中に新期御嶽が成長したと推定されている。
新期御嶽火山の活動は約10-9万年前に突然始まった。それは継母岳火山群と呼ばれる。大規模な軽石の噴出で始まり、その軽石は関東平野一円にも降り積もった。古期御嶽火山の中央部では山体が陥没して直径5-6kmのカルデラが形成されたと考えられている。南東側の三笠山はそのカルデラ縁の一部だ(図3)。その後引き続いて、流紋岩やデイサイト質の溶岩や火砕流が噴出した。現在、その噴出物は継母岳を中心に山体を構成している。
図3:中央の新期御嶽と周囲を取り囲んで分布する古期御嶽。三角形に近いカルデラが古期御嶽に形成され、その中に新期御嶽が成長したと推定されている。
図4:新期御嶽火山の火口群の分布。ほぼ南北方向に配列している。
引き続いて約8万年前、継子岳火山や一ノ池火山などの名前がついた8つの火山からなる摩利支天火山群の活動が始まり、安山岩質の溶岩や火砕流を噴出した。カルデラ内で火口を移動しながら活動し、カルデラを埋め、現在の南北に並ぶ山頂群が形成された(図4)。その後半に継子岳火山、四ノ池火山、一ノ池火山、そして三ノ池火山が順に噴火し、そのときの活動の中心が一ノ池や二ノ池などの火口湖となっている(図5)。
約5万年前には大規模な山体崩壊がおこった。くずれた岩屑は東斜面の王滝川から木曽川沿いに土石流となって流下し、200km下流の愛知県犬山市や岐阜県各務原市まで及んだ。これを木曽川泥流堆積物という。おそらく濃尾平野を通過して伊勢湾に流れ込んだであろう。この火山群の活動はほぼ2万年前に終了した。
図5:上空よりみる一ノ池火口と二ノ池火口。一ノ池は埋め立てられ、すでに湖沼は涸れている。
最近2万年間は、水蒸気爆発を中心とした比較的静穏な時期である。たびたび小規模な水蒸気爆発はおこっていた。最近の研究では、マグマも噴出したことがあったらしいことがわかってきた。1979年10月28日、剣ヶ峰の南の地獄谷上部において水蒸気爆発がおこった(図6)。この時の火山灰は遠くは群馬県前橋市まで達し、有史以来初めての噴火と騒がれた。1991年5月、そして2007年3月、きわめて小規模な噴火がおこった。地獄谷の残雪上にうっすらと火山灰が積もった程度だ。もしこれが無積雪期におこったならば、あるいは観測に行かなければ、その形跡はほとんどわからなかったであろう。水蒸気爆発をおこしたと考えられる爆裂火口跡は、地獄谷の上部だけでなく、剣ヶ峰の北に位置する二ノ池からサイの河原にもたくさん分布している。
図6:南方上空よりみる地獄谷(手前)。白色に岩石が変質し、わずかに白い噴気が立ち上る。最奥部は継子岳。
火山活動ではないが、地震も山の形に影響を与える。1984年9月14日、直下型の長野県西部地震(M6.8)に揺すられて、御嶽火山南部一体で斜面崩壊が発生した。伝上川の上流域で最大の崩壊がおこり(御嶽くずれ)、くずれた岩屑が平均時速80kmに達する岩屑なだれ(大小さまざまな岩の破片の高速な流れ)として流下し尾根をも乗り越え、下流域では土石流となって30人以上の犠牲者を含む大きな被害をもたらした。谷底にあった濁川温泉はこの時に消え去ってしまった。