生きている浅間山

(2007年12月)

 

 浅間山はその西の高峰山、籠ノ登山から湯ノ丸山、烏帽子岳にいたる火山群の一部だ(図1)。その中で唯一、活発に活動を続けている活火山である。浅間火山の火山体は西側の蛇骨岳-黒斑山-牙山-剣ヶ峰と続く峰を外輪山とし、中央に前掛山、そしてその内側に釜山中央火口丘がそびえている。三重式の火山といわれるが、いわば、三世代にわたる火山だ。そのほか、南の石尊山や東の小浅間山、軽井沢北の離山などは側火山の溶岩ドームだ(図2)。

図1、浅間火山周辺の広域地質図。右端(東)に浅間山。その西に古い火山群が続く。(20万分の1地質図「長野」、中野ほか、1998、地質調査所発行)。

 

図2、南東より見た浅間山。左に外輪山の一部、剣ヶ峰。右に小浅間山溶岩ドーム。

 

 まず大きな成層火山体が10万年前頃から2万年前にかけて形成された。これが現在の黒斑山を中心とした山体、いわば第一世代の浅間山だ。繰り返し流れた溶岩が層をなしている様子は、黒斑山近辺の東崖で見ることができる。約2.4万年前,この成層火山が大規模に崩壊し、崩れた堆積物は南北両山麓を広く覆った。このような山体の崩壊・流動現象を「岩屑(がんせつ)なだれ」といい、流れ下ってたまった堆積物の表面には大小さまざまな小山がたくさんできる。この小山を「流れ山」と呼ぶ。南麓の佐久市塚原、北麓の長野原町応桑に見られる流れ山はこの時のものだ。
 浅間山最大の噴火は約1.6万年前におこった。軽石の放出とともに軽石を主体とした火砕流(軽石流)が噴出し、南麓と北麓に広がった。やや南東に流下した火砕流は湯川を堰き止め、そこには一時的に湖が形成された。湖が干上がって残った堆積物が軽井沢周辺に広がる平坦面を作る。その後、前掛山を中心とした活動が続くようになり、黒斑山の東側に何枚もの溶岩が積み重なった第二世代の成層火山体が形成された(図3)。

 

図3、噴煙を上げる釜山。手前に前掛山の縁が見える。全景は黒斑山の崖。2005年5月防災ヘリにて西北西上空より古川竜太撮影。

 

 浅間山では、歴史時代に限れば1108年と1783年に二度の大噴火がおこっている。このうち1783年(天明3年)の大噴火は特に有名だ。天明の飢饉の原因とか、はたまたフランス革命につながったとかまじめに唱えた人までいたくらいだ。約3ヶ月間続いたこの噴火は、いろいろな古文書・古絵図に記録が残っているだけでなく、火山学的に興味深くよく研究されてきた。前掛山の内側に釜山中央火口丘(火砕丘)が形成されたのはこの噴火である。この一連の噴火では、東麓から北関東にかけての広い範囲に軽石や火山灰が降り注ぎ、北麓には吾妻火砕流、鎌原火砕流・岩屑なだれ、そして最後に鬼押出溶岩が順に流下した、と考えられてきた(図4)。さらに鎌原岩屑なだれは吾妻川を堰き止め、やがて決壊、利根川流域に多くの被害をもたらした。

 

図4、浅間火山地質図(荒牧重雄、1993、地質調査所発行)。三重式の構造がよくわかる。鬼押出溶岩が山頂付近から流れ出している。

 

 しかし、ごく最近のある学者の説によると、鬼押出溶岩は噴火の終幕ではなくもっと早い時期に噴出していたともいわれる。古文書には噴火の経緯がいろいろ記録されているが、こと鬼押出溶岩についてはまったく目撃談がない。この溶岩がどのように流れたかについても研究者によって見解が異なる。山頂火口からあふれ出したのか、それとも、火口から激しく噴き出された大量のマグマのしぶきが落下し、それが集まって再び流れ出したのか。また、鎌原火砕流についても、山頂から発生したとも、鬼押出溶岩が湿地に流れ込み激しい水蒸気爆発がおこって発生したとも。いずれにせよ、鎌原岩屑なだれは鎌原火砕流が元になって発生したものだ。火砕流がきっかけとなり大量の土砂が一斉に流れ出し、「ヒッシオ、ワチワチ」という音とともに麓の村を急襲した。この時、下流の鎌原村では住居はほぼ壊滅し、高台にあった観音堂に避難していた93 人だけが助かったのだ。観音堂の正面には15段の石段がある。しかし、もともとは150段もあったと言い伝えられていた。1979年と1980年に発掘調査が行われた。言い伝えほどではないが、35段の埋もれた石段が出現、そして、最下段には逃げ遅れた2人の女性遺体まで発見されたのだ。

 このように、たかだか江戸時代の噴火であっても、古文書に記述されていない事柄に関しては研究者によって見解が異なることがたくさんあるのだ。古くから研究されてきた火山だが、まだまだ研究の余地がいっぱいある。なお、鬼押出溶岩は、安山岩質の溶岩の形態としての「ブロック溶岩」の典型として有名だ(図5)。多くの多面体の岩塊(ブロック)が表層を覆っている。さらにもう一つ付け加えておこう。鬼押出溶岩の西に天然記念物の「溶岩樹型」がある。しかし、この場所は溶岩ではないのだ。これは、1783年の吾妻火砕流に焼かれてできた“火砕流樹型”なのである。

 

図5、鬼押出溶岩の典型的な構造(ブロック溶岩)。遠景は小浅間山。


 1783年噴火以降、釜山中央火口丘の山頂火口では断続的にブルカノ式噴火と呼ぶ爆発的な噴火が続き、火山弾や火山灰を飛散させているほか、小規模な火砕流も発生している。たびたび人的な被害も発生している。最も最新の噴火は2004年9月、21年ぶりのブルカノ式噴火がおこったのはまだ記憶に新しい。ここのところ静穏な状態だったが、決して安全な状況にはならない。基本的に、山頂へ行くことは許されない山なのだ(図6)。

 

図6、噴煙上げる釜山の火口。2004年9月13日、古川竜太撮影。9月1日に始まった噴火は小康状態だったので研究者たちが登頂、しかし、この翌日に小爆発があった。

 

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