白馬岳周辺の鉱山
 - 登山道、そこはかつての鉱山道 -

(2008年5月)

 

 日本列島では、古来から戦後まもなくまで、至るところで鉱物資源の採取が行われていた。はるか昔から山師が深山幽谷に分け入っていたのだ。発見された鉱山から鉱石を運び製錬した名残は至る所に残されている。ここでは、北アルプス北部の白馬岳周辺の主な3つの鉱山を紹介する。



蓮華銀山
 白馬岳の北、雪倉岳の南方にあった銀・鉛・亜鉛の鉱山である。秘湯、蓮華温泉の南東方向だ。明治期にかのW・ウェストンもこの鉱山を訪れている。雪倉銀山あるいは大所銀山ともいわれたらしい。上杉謙信によって採掘されたという伝説もあるが、その真偽のほどはかなり疑わしい。ただ、戦国時代に開発されたのは確からしく、古文書が残されている。
 蓮華温泉から雪倉岳東斜面を通り三国境へ向かう登山道は今でも鉱山道と呼ばれている。この途中に、一般の登山地図にも「塩谷精錬所跡」と記された場所がある。登山道のすぐ脇、少し広くなって整地された場所に建物跡がはっきりと残っている(図1)。付近を探せば製錬滓(鉱滓)や鉱石も見つかる。製錬滓とは釜で鉱石を溶かして有用な金属を取り出したあとの残りカスだ。また、登山道を外れたその周辺の沢沿いには、坑道の木枠と思われる丸太の散在した場所が埋もれかけた穴とともに何ヶ所かで確認できる(図2)。この鉱山は明治の終わりまで300年ほどの間、鉱山主が次々と変わり、試掘・休山の繰り返しの歴史であったらしい。交通の便が悪いうえ積雪が多く、採掘可能時期が極端に短かく、とうとう大きな鉱脈は発見できなかった。
 発見された数10本の鉱脈は幅が1mないし4m、主な露頭は15ヶ所あったという。鉱石は方鉛鉱と閃亜鉛鉱、品位は鉛が最高11.3%、銀は1トンあたり最高532グラム、そのほか、亜鉛6.6%、銅0.2%などの記録がある。
 蓮華温泉の南東に、“千国揚尾根”と呼ばれる尾根がある。小谷村千国から稗田山の南を通過し山ノ神を経て、千国揚尾根のフスブリ山の南(“千国揚”)から蓮華温泉へ下る道があり、かつては蓮華温泉や蓮華銀山まで物資が運搬され、人夫が通行していたという。千国から山ノ神までの登山道の一部が広い幅を持ち大きくジグザグして続いているのは、かつて牛馬が通行していた名残であるらしい。人が通るだけならこんな立派な道はつくらないのだ。

図1:蓮華銀山の塩谷精錬所跡。

 

図2:蓮華銀山の崩れた坑口の名残。崩れた木枠が残されている。

 

大黒銅山
 白馬岳南方の唐松岳から西方に下る登山道の途中、山積みされた大量の製錬滓に出くわす(図3)。ここでかなり大規模に製錬されていたようだ。坑口は登山道より南、餓鬼谷沿いの左岸の側面にいくつもの穴が並んで開いている(図4)。坑口は多いときには30ヶ所ほどもあったらしい。
 ここには黄銅鉱を中心に採掘していた銅山があった。ここは1906(明治39)年に発見され一時はさかんに稼行されたが、資源が枯渇し1918(大正7)年に閉山した。ここで製錬されたものは、八方尾根を経由して現在の白馬村に運び出されていた。現地の鉱山付近に住宅と精錬所を建てたほか、現在の白馬村からの登山道を整備し、製錬用の炭を焼く窯を多数作り、大いに賑わっていた。多いときには坑夫やその家族などで100人をはるかに超えていたらしい。また、餓鬼谷に小さなダムを造り発電し、製錬所までの鉱石運搬用に索道(リフト)を懸けていたという。
 八方尾根、兎平の下にジグザグした路がある。それは当時の荷揚げ物資と銅の延べ棒を運んだ当時の牛道だったという。
 もちろんここも冬期の採掘は不可能である。一時は越冬者もいたというが、基本的には冬は山を下り、半年限りの季節労働であった。

 

 図3:大黒銅山の製錬滓の山。

 

図4:餓鬼谷左岸に開けられた坑口跡。


白馬銅山
 白馬大雪渓の左岸にあった銅鉱山である。その一部は雪渓からすぐそこに見える場所にあるのだが、その存在は登山者にほとんど知られていない。白馬大雪渓の支流に三号雪渓と呼ばれる雪渓が登山地図にも記されていることがある(図5)。これは、かつての3番目の坑口あったことから使われた名称が残っているのだ。
 この鉱山は1901(明治34)年頃から試掘されたが、1907(明治40)年に放棄された。掘り出された鉱石もわずかに放置されている(図6)。製錬跡もあるらしい。その後、1952(昭和27)年に再び試掘願が役所に提出されたが、観光的な価値を害するとして地元の同意が得られず、1954(昭和29)年に開発を断念している。また、この鉱山の付近は江戸時代中期から金山(かなやま)として知られていたらしく、少し下流には金山沢という地名も残されている。最初は銅でなく銀の鉱脈が採掘されたらしいが、詳しいことはわかっていない。
 この鉱山には4ヶ所に鉱脈の露頭があり、銅の品位は一部で16-20%と良質、 0.9mと1.2m幅の2本の鉱脈があった。黄銅鉱を主体とし、藍銅鉱を伴ったと記録されている。
 白馬銅山は大黒銅山に比べ、全体として銅鉱石の品位は低く鉱量も少なかったものの、交通の便がよくかなり期待された鉱山だったが、結局十分に開発されずに閉山したのである。鉱山そのものは短命であったが、ちょうど近代登山の黎明期に開発され、そのおかげで登山道の一部が整備され、多くの登山者がその利に浴していた。もし夏の登山最盛期に、日本三大雪渓の一つ、白馬大雪渓のすぐ横でガンガンと鉱石が掘られ、有毒な煙をモクモクと上げて製錬していたのなら、美しい自然が破壊され、楽しいはずの登山もまったく興ざめそのものだったに違いない。

 

図5:白馬大雪渓支流の三号雪渓。この写真のどこかに鉱山が・・。


 図6:白馬銅山の坑口跡。

 

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