立山火山

(2008年6月)

 

  立山火山はいくつもの火山がほぼ南北に並んだ“火山群”だ。山頂火口を中心に成長して形成された、例えば富士山に代表されるような、円錐形をした大型の成層火山、があったわけではない。



 「立山は火山」ときいて、「おや?」と疑問を持つ方、それは正しい知識だ。雄山に代表される立山(図1)は、たしかに火山ではない。立山連峰も立山三山も、ジュラ紀の花崗岩や花崗閃緑岩からできている。しかし、その立山の名前を借りた火山がある。弥陀ヶ原火山ともいうが、ここは立派な活火山だ。江戸時代に噴火した記録もある。

図1:立山連峰(中央)と立山火山。立山連峰右のピークが立山三山の一つ、浄土山。その手前に立山火山の噴出物が広がる。

 

 さて、立山火山とは? おおざっぱにいうと、室堂から弥陀ヶ原、そして五色ヶ原の2ヶ所が立山火山の残された山体である。室堂の地獄谷では火山ガスが激しく噴き出し、高温の温泉があふれ出ている。確かにここは生きた火山だ。では山頂はどこに? 火口はどこに? じつはその後の浸食で削られ、地獄谷を除き、火山らしい地形はほとんどなくなってしまったのだ。

 今の立山火山でいちばん高い場所は室堂山(標高約2,670m)だ。そこは“立山カルデラ”のへりにあたる。立山カルデラとは、天狗山や国見岳の南、湯川谷が流れる砂防事業で有名な場所だ。この立ち入れない凹地がどのようにしてできたかは別にして、地名としてすっかり定着している。では、このいちばん高いところにある室堂山の溶岩は、いったいどこから流れてきたか。じつは、このカルデラの中に、というよりも、今はなにもないもっと高い空中に、むかし、高い山があり、火口があったはずなのだ。

 22-20万年ほど前の最初の活動期(第1a期)には、五色ヶ原より南に火口があった。越中沢岳付近だ。現在の立山カルデラの一部に浅い凹地ができていたらしく、ここの浅い湖を埋めるように南から溶岩や土砂が流れ込んでいた。

 15-10万年前(第1b期)は五色ヶ原の鷲岳や鳶山を作る溶岩が流れ出した。五色ヶ原の主体を作る溶岩だ(図2)。鷲岳よりも西側で噴火がおこっていたらしい。そこには、今の鷲岳よりもっと高い山があったはずなのだ。

図2:上空より見る五色ヶ原。左奥は薬師岳。


 その後、大規模な火砕流が噴き出した(第2期)。弥陀ヶ原の台地を作り、称名滝に露出するぶ厚い地層がそれだ。自身の熱と自重で含まれていた軽石や火山灰がつぶれ、溶結凝灰岩となっている。こんなに厚くたまったのは、もともとの深い谷を埋めたことが理由だ。称名滝の右岸で、岸壁がどんどん右上がりに大日平に向かって上がっているのがわかるだろう。それが昔の谷斜面なのだ。五色ヶ原の表層を覆う火砕流も同じ頃だ。

 その火砕流の噴火した場所は、五色ヶ原と室堂平の中間あたりと考えられている。そのころ、立山三山と五色ヶ原の間の西側に、標高2,800m以上の山があったのだ。そこが大規模に噴火し、きっと大きな火口ができたことだろう。この時にカルデラが形成されたかもしれないが、カルデラができるかできないか、噴火したマグマの量はぎりぎりの体積だ。まあ、ある程度の大きな凹地はできただろう。しかし、今となってはなんの証拠もないのだ。

 9万年前から4万年前までの間、室堂平や天狗山の溶岩が流れ出た(第3期)。それは明らかに室堂より南から流れてきている。そのときの火口位置は3,000mに近かったらしい。その場所は火砕流を噴出した火口よりもおそらく少し北だろう。

 そして現在までを含む第4期、その後の活動の中心は今の地獄谷周辺だ(図3)。ミクリガ池やミドリガ池なども水蒸気爆発の火口跡だが、ほかにも小さな火口がたくさんある(図4)。いずれも小規模な噴火だ。マグマは噴き出さなかったらしい。地獄谷そのものもいくつもの火口が複合してできた凹地だ。この時代を通じて湯川谷の源頭部が拡大し、立山カルデラが形成されていった。それにより、火山の歴史を知る上での多くの痕跡が失われてしまった。

 

 図3:地獄谷の鍛冶屋地獄(1997年)。ガスから昇華した硫黄の結晶でできている噴気塔。この時、活動は停止し、右側から噴気ガスが噴き出ていた。

 

 

図4:ミクリガ池は爆裂火口跡。

 

 立山火山の火口があったらしい場所を推定し、地図に書き込む(図5)。そうすると、地獄谷がいちばん北だが、火口の位置がだいたい南北にならぶ。かなり直線的な配列である。また、立山火山とは別とされているが、30-20万年前の噴火で流れたスゴ乗越付近に分布する安山岩溶岩も、火口を推定するとその南延長上だ。

 さてここで、乗鞍火山列のほかの火山、御嶽山や乗鞍岳とくらべてみる。地図があれば眺めてみてほしい。これらの火山では、南北4-5kmの間に、いくつもの火口がならんで南北に延びた稜線を形成している。それぞれの火口を中心に山がいくつもあるが、それらが集まってひとつの大型の火山になっているのだ。同じように焼岳でも、北東-南西に山がいくつかならんでいる。
 そう、立山火山でも同じなのだ。噴火の場所がいくつもならんでいたにちがいない。その場所は、地獄谷と五色ヶ原の南をむすぶ線上だ。そして、もともとの立山火山の火口の高さは、標高2,800mから3,000mくらいあったのだ。火口の位置は、むかしほど南にあったらしい。
 立山から五色ヶ原を通り、薬師岳方面に縦走する時、あるいは逆コースでもいい。この稜線の西側で、かつては火山が盛んに噴火していたことを想像できるだろうか。今はその名残を全くとどめないのだ。

 

図5:火口位置の移り変わり。赤丸が推定された火口位置。時代とともに南から北に移動した。中央に“立山カルデラ”。

 

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