鳥海山

(2008年9月)

 

 鳥海山(2,236m:新山)は日本海側随一の独立峰だ。そして、歴史時代に多数の噴火が記録されている活火山である。火山体の基底部の直径は東西約26km、南北約14kmに達し、日本でも有数の規模を誇る火山である(図1)。山体の北と南、特に北側の象潟平野-由利原高原には、山体の崩壊によりもたらされた岩屑(火山を構成する溶岩・地層が崩れて細かくなった大小さまざまな岩塊・岩片)が広く分布しており、これらの堆積物も含めると火山噴出物の分布域は南北に40kmを超えている。


図1:鳥海山の地質図。地質調査所発行の5万分の1地質図幅「鳥海山及び吹浦」(中野・土谷、1992)に国土地理院の数値地図50mメッシュ(標高)を使用。溶岩流が時代ごとに色分けされている。赤線で2つのカルデラ壁を記入。北東側が東鳥海馬蹄形カルデラ、南西側が西鳥海馬蹄形カルデラ。左側の赤茶色い部分が猿穴溶岩。

 

 鳥海火山は西鳥海と東鳥海に分けられている(図2)。“西鳥海”は、鍋森や鳥海湖を取り囲む、南西に開いた西鳥海馬蹄形カルデラを頂部に抱え、その西側には溶岩流に覆われたなだらかな山容が日本海に向かって広がっている。海岸線は溶岩の断崖になっていることが多い。“東鳥海”は、新山や荒神ヶ岳を取り囲む、北に開いた東鳥海馬蹄形カルデラを頂部に持つ山体であり、こちらが鳥海山の主峰である。東方から望む山頂近くは30゚近い傾斜をなし、比較的なめらかな円錐形の山体となっている。

 

図2:南方より見た鳥海山全景。庄内平野より。右が東鳥海、左が西鳥海。

 

 その成長の歴史を少しだけ紐解いてみよう。鳥海山は活動中心が異なる3つの火山が重なっているといってもよい(図3)。

 最初にできた大きな火山、古期成層火山の活動開始は少なくとも50万年前までさかのぼる。約40万年前には高度2,000m程度のほぼ円錐形をした火山体が完成していた。大規模な山体崩壊(岩屑なだれ)が数回にわたっておこり、山体の北麓、由利原高原や南麓に大量の岩屑堆積物が広がっている。

 

 図3:鳥海火山の地質概略図。時代順に分けてある(中野、1993、地質ニュース)。1が最初にできた古期成層火山、2が次にできた山体(ほぼ西鳥海)、3が3番目の山体(東鳥海と西鳥海の猿穴溶岩)。

 

 次の西鳥海の活動の始まりは約15万年前にさかのぼる。古期成層火山の活動との間には、それほど長い休止期はなかったらしい。活動の中心は現在の西鳥海馬蹄形カルデラの頂部付近にあり、溶岩を噴出しては山体を西へ西へと拡大して、裾野は日本海まで達した。この火山は標高2,300m 程度に達していたと推定される。その後、ほとんど完成された西鳥海の斜面上に、ほぼ西北西-東南東方向に1列に並んだ観音森、大平などの側火口が活動し、溶岩を流出した。

 そしてとうとう山がくずれた。西鳥海の山頂部が南西に向けて崩壊し、直径約2kmの馬蹄形のカルデラが形成された。これを西鳥海馬蹄形カルデラという。その後、カルデラ内に鍋森溶岩ドームや鳥ノ海火口などができた(図4)。鳥ノ海火口は鳥海火山としては珍しい火砕丘で、現在では鳥海火山で唯一の火口湖を持つ。鍋森付近からは麓まで達する溶岩が流出し、最後に溶岩ドームが形成されている。

 

図4:西鳥海の鳥の海火口と鍋森溶岩ドーム。



 約2万年前、活動の中心が東に移動し、現在の新山付近を中心とした活動になった。これが東鳥海の本格的な活動期の始まりである。大量の溶岩を流出しており、七高山直下などのカルデラ壁には、溶岩が累々と積み重なっているのがよくみえる。東鳥海の最高高度は2,400-2,500mに達し、富士山型の美しい円錐形をしていた。この頃、西鳥海の西山腹で側火口が活動し、猿穴火口から溶岩を流出した。江戸時代の旧跡、有耶無耶の関祉のある三崎海岸はこの溶岩流からできており、日本海に突出した岬になっている。この溶岩は縄文遺跡との関係から3000年前とも推定されているが、実のところよくわかっていない。

図5:紀元前466年の鳥海山。時代順に描かれたマンガ(中野、1993、地質ニュース)の一部。

 

 そして紀元前466年、東鳥海の山頂付近で大規模な山体崩壊が起こり、北に開いた馬蹄形のカルデラが形成された(図5)。これが東鳥海馬蹄形カルデラである。なぜ紀元前466年とわかるのか、それは堆積物中に埋もれていた杉の年輪を解析したことによって確定した年代だ。この時の崩壊物が象潟岩屑なだれ堆積物と呼ばれており、特に象潟平野で目につく多数の比高50m以下の小丘は流れ山と呼ばれ、岩屑なだれ堆積物のつくる特徴的な地形である(図6)。流れ山の内部は、溶岩岩塊が細かく破砕されてはいるが、もともとは1つの巨大な岩塊であることも多い。この岩屑なだれの堆積によって、象潟平野では内陸にせき止め湖(象潟町本郷付近)が、海岸には潟湖(古象潟湖と呼ばれる)が形成された。1689年に象潟を訪れた芭蕉は、“江の縦横一里ばかり、おもかげ松島に通ひてまた異なり。松島は笑ふが如く象潟はうらむが如し。寂しさに悲しみを加へて、地勢魂をなやますに似たり 象潟や雨に西施がねぶの花”、と奥の細道に残している。この潟湖は1804年の象潟地震による地盤隆起で干上がってしまった。この風景が国の天然記念物に指定されている。なお、内陸に形成されたせき止め湖は、奈曽川から排水されて現在では消滅している。

 

図6:北方から見た鳥海山。奥にカルデラと手前に紀元前466年の流れ山(由利原高原)。。

 

 カルデラ形成後はカルデラ内の中央火口丘が繰り返し活動しており、現在に至っている。新山・荒神ヶ岳付近を噴出中心とした溶岩の流出が続き、カルデラ底を埋積していった。1801年に形成された新山溶岩ドーム(直径300m、比高70m)は、ついにカルデラ縁(外輪山)の高さ2,230mを超え、今では鳥海山の最高峰になっている(図7)。

図7:1801年にできた新山(左)とカルデラ壁。新山溶岩ドームからは手前側に溶岩流も流れている。カルデラ壁の最高地点が七高山で、壁には何枚もの溶岩流が見られる。


 1974年2月から5月にかけて、東鳥海馬蹄形カルデラ内の新山や荒神ヶ岳の周辺で、規模の小さい水蒸気爆発が起こった。これは140年ぶり、鳥海山の最新の噴火である。この時はわずかの降灰と、融雪による泥流が発生した。泥流の最大到達距離は3-4km程度で、山麓には達しなかった。4月には秋田県湯沢市や本荘市でも降灰が記録されている。幸い、被害はほとんどなかった。

 鳥海山はいつ噴火してもおかしくない火山である。なにか兆候があったらすぐに情報が流される時代となったが、さて次はどんな噴火だろうか。

 

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