6.あとがき私が地質調査所に職を得たその年(1983年),当時の地質部長の進言があった.今度入ってきた新人には“鳥海山”を,と考えていたそうだ.そして「鳥海山」とその北の「矢島」は所内指定研究“特定地質図幅の研究”の第2次計画に組み込まれた.その当時,林 信太郎氏(当時,東北大の博士課程在学中:現在,秋田大助教授)が鳥海火山を精力的に調査中であり,すでに火山学会などでは,“鳥海は林さんの山”であった.「鳥海山及び吹浦」図幅やこの小文の内容は,林氏の一連の研究の成果に負うところが大きい.
地質調査所の地質図幅は四角四面の地質図である.鳥海火山の本体は東側の「鳥海山」と西側の「吹浦」にまっぷたつに割れてしまう.火山の全貌を明らかにするためにはどちらの地域も調査する必要があることは言うまでもない.その成果としてどちらも地質図幅として印刷することを当初から希望していた.ところが,「吹浦」地域はかつての7万5千分の1地質図幅(1933年発行)がすでに出版されているために,5万分の1「吹浦」を新たに計画することは許されなかった.しかし,当初の予定より1年遅れはしたものの,その後のさまざまな経緯を経た結果,関係者の努力と熱意が両地域を1枚の図幅にした「鳥海山及び吹浦」として完成したのである.
稲倉岳:古い山体の一部
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