富士火山を知る 3 山麓編

 

 

1. 貞観噴火と青木ヶ原

富士山の山麓には多数の溶岩トンネルや溶岩樹型があり、天然記念物に指定されている場合が多い。特に北西部の青木ヶ原には富嶽風穴、鳴沢氷穴や西湖コウモリ穴などの一般公開されている溶岩トンネルが集中する。流れる溶岩では、外側は空気に触れて冷えて固まるが、その内部は冷えずに流れ、それが抜けてしまうと空洞になる。それが溶岩トンネル(洞穴)だ。

富士山の溶岩岩洞では西湖コウモリ穴は最大級らしい。そこでは、トンネルの底面を流れた溶岩流のしわ模様がいちばん見事だ。鳴沢氷穴は夏でも涼しい。トンネルの天井から落ちてくる水滴がつららになり、床面まで落ちた水滴が凍って竹の子のようになるのが氷旬、その大きいものを氷柱という。同様に、溶岩がトンネル内を流れるときに、一度は固まった溶岩が再び溶け、したたり落ちる。天井からぶら下がるのが溶岩鍾乳石、床面に積もってできるのが溶岩石筍である。これは石灰岩地帯の鍾乳洞で見られる鍾乳石、石筍と似た原理でできたものだ。ただし、鍾乳洞のスケール感を溶岩トンネルに期待してはいけない。


西湖コウモリ穴(溶岩トンネル)の床面。冬期は立入禁止。


青木ヶ原は樹海で有名だが、その土台となっているのが青木ヶ原溶岩流である。それが平安時代の貞観噴火(西暦864-866年)で、溶岩流の大部分は最初の2ヶ月のうちに流れ出たらしい。精進湖と西湖の2つの湖はこの溶岩流が「せの海」を分断してできたと古文書に記載されている。2つの湖の水位がいつも一緒であることは、地下でつながっているからだとされている。現在の青木ヶ原樹海を構成する森林の多くは樹齢300年程度のツガやヒノキである。貧土壌のため、成長が遅く、年輪が詰まっているらしい。溶岩流の下流部では炭焼き窯の跡も見つかっている。なお、富士五湖東端の山中湖も10世紀と考えられている溶岩流によるせき止めにより生じたものだ。

西湖付近の炭焼き窯跡。


溶岩樹型とは、木が生えている所に溶岩が流れてきて、木が燃えてしまい、空洞になった孔である。もちろん、細い樹木ではできない。直径数十cm以上の大木だとできやすい。富士山の溶岩は粘性が低い玄武岩なので、木の形がそのまま残りやすい。もちろん、木そのものは燃えてしまい、なにも残っていないのが普通だ。太いものでは直径4mを超えるような溶岩樹型があり、青木ヶ原溶岩流にできた鳴沢溶岩樹型(鳴沢村)が最も有名だろうか。国の特別天然記念物に指定されているが、溶岩樹型を見学に行っても地面のところどころに円形の竪坑が空いているだけだ。横倒しになった樹型には内部がよく観察できるものがある。


青木ヶ原で見られる横倒しの溶岩樹型とその内部の壁


もちろん、青木ヶ原以外にも富士山麓には多数の溶岩トンネルや溶岩樹型がある。千年ほど前に流れた溶岩にできた船津胎内樹型(富士吉田市)は、竪坑があったり狭かったり、なかなかスリルがあっておもしろい。日本で溶岩トンネルや溶岩樹型が見られる火山はごく限られており、間違いなく富士山が随一であろう。

 

2. 自衛隊の演習地に立ち入る

陸上自衛隊は富士山麓、山梨県側の北富士演習場と静岡県側の東富士演習場に広大な敷地を持つ。ここでは、北富士演習場に立ち入ってみよう。もちろん普段はこの中に立ち入ることはできないが、ほぼ毎週日曜日や特定の日には、事前に申請すれば演習場そのものに一般人の立入も許される。立入可能日は公表されているが、直前に変更になることもあるので注意が必要だ。


演習場内から見る富士山。


演習場内にある雁ノ穴(がんのあな) は国の天然記念物に指定されている場所だ。ここの溶岩流は1500年ほど前に流出した雁ノ穴溶岩流というが、どこから流れ出たのか、はっきりしなかった。この火口を特定できたのはアジア航測株式会社の千葉達朗さんのおかげである。

赤色立体地図をご存じだろうか。最近のテレビ番組で、等高線を引いた地形図ではなく、地形を表す地図としてこれが使われることが多くなってきた。少しだけ説明しよう。これは地形の凹凸を視覚的にわかりやすくした表現方法で、千葉さんが開発したアジア航測(株)の特許技術だ。これを使ってうまく表現したのが赤色立体地図だ。従来の航空写真では樹林帯の中の様子はまったくわからなかったのだが、富士山では樹林帯の下の地表面がわかる精密な航空レーザー測量も実施されており、それを用いて作成された赤色立体地図のおかげで断差1m以下の小さな崖のような微地形も読み取れるようになり、私たちの地表調査もずいぶんとはかどった。

雁ノ穴そのものは天井の一部が陥没した、南北方面に連続して伸びている溶岩トンネルである。その周囲に大小さまざまな溶岩樹型がたくさんある。そのトンネルの上流側延長上の地表を少し歩くと幅5m程度の溝状の地形が直線上に続く。その周囲には地表に薄い溶岩があるが、ここを火口と断定する証拠がなかなか見つからなかった。赤色立体地図でこの溝状の地形はよくわかるし、雁ノ穴を含め周囲に多数の溶岩樹型と思われる孔は見つけられるのだが・・。

その後、2014年の台風で溝の周辺の大木がたくさん倒れ、横倒しになった大木の根の裏にスパターがくっついていることを千葉さんが確認した。スパターは火口の周辺に降り注ぐものだ。それが、この場所が雁ノ穴溶岩流を流した割れ目火口と解釈できる証拠となった。雁ノ穴はその下流部に形成された溶岩トンネルだったのだ。現地を千葉さんに案内され、雁ノ穴溶岩流の出口はここだ、と私は納得させられたのであった。2016年7月、富士山科学研究所による雁ノ穴上流部のトレンチ調査が行われ、火口の位置は確定した。

雁ノ穴の南東約4km地点に大量の溶岩樹型が見つかっている(柏原溶岩樹型群)。10世紀の鷹丸尾溶岩流の中だ。報告書によるとここでは150本以上の孔が確認されており、富士山でもいちばん密集している場所らしい。ただし不幸なことに、ここは演習場のまっただ中だ。十分な調査がなされたのかは知らないが、その後の保全はろくにされていないのは確かだ。もちろん現地に看板もなく、かつての調査で付けられた小さな札が残されている程度だった。道路際とはいえなにも目印がなく、たとえ演習場に立ち入ってもこの場所を発見するのは難しいかもしれない。

雁ノ穴の直立する溶岩樹型。

 

3. 白糸の滝

白糸の滝は富士山の南西麓にある観光名所だ。これを地質学の眼で見てみよう。ここの崖では、2万年前以上前に川で運ばれた土砂がたまった扇状地の堆積物と、その後に流れた富士宮期の溶岩流の2層が重なって崖になっている。白糸の滝はその間から水が浸み出して流れている滝、すなわち潜流瀑である。もちろん、日本の滝百選の一つだ。崖の上部を作っている溶岩には柱状節理が見られ、溶岩の上を流れる本流に懸かる滝自体は直瀑なのだが、それよりも、崖の中段から幅200mほどの白いカーテンのようになって落ちる豊富な水がなす潜流瀑に目を奪われる。下部の扇状地を構成した堆積物は礫を含むよくしまった泥や砂の層で、水を通しにくい不透水層となっている。それに対しその上の溶岩は割れ目が多く、一見硬い溶岩なのだが水が浸透しやすい透水層なのだ。そのため、山側で地中に染み込んだ地下水がその境界から流れ落ちているのだ。

白糸の滝。伏流水は上部の溶岩流(透水層)と下部の火砕物(不透水層)の境界から流れ出している。


富士山の山中では水流のある滝を見ることはほとんどない。もちろん大沢崩れには溶岩流が庇になって作られたいくつもの小さな滝があるが、大雨にでもならないと水流はないだろう。また、東のふじあざみライン終点、須走口の南には「幻の滝」がある。この滝は、残雪期のみに現れる溶岩の上にできた滑滝であり、渇水期には雨でも降らない限り水流はまったくない。富士山に降る雨はぐずぐずのスコリア層や溶岩の割れ目を通って地下に浸透してしまうのだ。その結果が忍野村(山梨県)の忍野八海や清水町(静岡県)の柿田川湧水など、山麓で豊富な湧水として利用されている。

 

4. 宝永噴火と宝永火口

江戸時代の宝永噴火(西暦1707年)は富士山で最新の噴火で、2週間ほど続いた。山頂の南東斜面には山頂火口と比べ直径が2倍程度の大きな火口が開いている。山頂側から第1、第2、第3火口だが、通常は1番上の第1火口と思っているだろう。火口が開いた順番は下からだが、2と3はあとから噴出したスコリアでだいぶ埋もれているのだ。第1火口の東側にあるちょっとした高まりが宝永山である。この時の噴火の様子は絵図にも残されているし、古文書も多く、山麓に積もった堆積物と対比して噴火の時間経過がよくわかっている。

さて宝永山だが、噴火以前に描かれたたくさんの富士山の絵図に宝永山らしき突起がひとつも描かれていないことから、この噴火の時に誕生したことは間違いないのだろう。この山を構成する地層が変質し、小断層が発達して変形を被っていることから、古い岩石(星山期)の地層が宝永噴火の時に盛り上がってできたと従来から言われてきた。いろいろ疑問を呈する研究者もいたが、ほぼ定説だった。ところが最近、富士山科学研究所の馬場 章さんのグループが詳細に宝永山の構成物を調べた結果、宝永噴火の噴出物に一致したというのだ(2022、火山学会誌)。定説を覆し、宝永山は宝永噴火の噴出物だ、ということになる。

宝永噴火の時、富士山に近い場所の被害は相当である。数十cm〜1mもの厚さのスコリアや火山灰が堆積した当時の神奈川県足柄地方では、天地返しという土地改良工事が大変だった記録が残っている。天地返しとは、まずは降り積もった層を取り除き、その下の元々の耕作地だった土を掘り出し、逆に戻してもとの耕作土を上にするというとんでもない工事である。

この宝永噴火は平安時代までと違って爆発的な噴火だった。大量にスコリアを噴出し、溶岩流を出していない。スコリアや火山灰は風に流されて江戸でも数cmも降り積もった。噴火の49日前に太平洋側で巨大な宝永東海地震が発生し、それからゴロゴロと音がしたと記録が残っているが、それは火山性の地震だろう。この巨大地震をきっかけにマグマが上昇し始めたと推測されるが、巨大地震と火山噴火がどのように連動しているかどうかの議論はなかなか決着しないだろう。

冬の宝永火口。いちばん上側が第1火口で、その右端(手前側)が宝永山。
愛鷹山黒岳より。日本の火山データベースより。

ここでは宝永第1火口を観察に出かけよう。南側、富士宮口の富士山スカイライン終点からゆっくり歩いて1時間だ。見上げる火口壁の中程から上には水平方向に伸びた溶岩の層がたくさん積み重なっている様子が見えるが、それを切ってまるでゴジラの背のような雰囲気の縦方向に延びた岩脈が何本も見える。富士山でいちばん岩脈が見える場所だ。宝永噴火で斜面が吹き飛んで、その後も崩れてよく見えるようになったのだ。

 

宝永火口上部の水平な溶岩・火砕岩層と垂直に伸びる岩脈。日本の火山データベースより。


宝永火口の底には高さが15m程度の小さな火砕丘がある。宝永噴火の最後に噴出したスパターが積み重なってできたものである。周囲ではきれいな形の紡錘状火山弾も見つけられるだろう。そして、少し登山道を上りながら足下をよく見てほしい。ほとんどは宝永噴火で放出された黒っぽいスコリアあるいは酸化して赤っぽいスパターが転がっているのだが、その中に色の違う岩石があるのに気がつくだろうか。それは白黒まだらの岩石で、マグマが地下でゆっくり冷えた深成岩である。花崗岩にも見かけは似ているが、これは「はんれい岩」というあまり聞き慣れない名前の岩石だ。握りこぶしより小さいものがほとんどで、黒い玄武岩の膜に取り囲まれていることもある。ゆっくり冷えたので鉱物の粒が粗い。白い鉱物のほか、黒い鉱物や黄色い鉱物が入っている。名前を言うならば、斜長石、輝石、かんらん石だ。これらは噴火の際にスコリアと一緒に地表に出てきたものだ。地下にあった岩石をマグマが取り込んで持ち上げてきたのだ。日本の火山でこういうものを見られるのはごくまれである。火口の底から見上げると宝永火口ではしょっちゅう落石が発生し、砂埃を上げている。この中に入って落石を避けながら岩石採取をしてくれたクライミング技術者には頭が下がる思いだ。

第一火口内、宝永噴火末期に形成された小型の火砕丘。


宝永噴火の際に放出された「はんれい岩」。


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